同二十七日、 「六波羅
の兵つはもの ども大内おほうち
へ寄よ する」 と聞こえければ、大内の兵ども、甲冑かつちう
を鎧よろ ひて相待あひま
ちけり。中にも、大将だいしやう
右衛門督うえもんのかみ 信頼のぶより
は、赤地あかぢ の錦にしき
の直垂ひたたれ に、紫裾濃むらさきすそご
の鎧よろひ に、鍬形くわがた
打う ちたる白星しらぼし
の甲かぶと の緒を
を締し め、黄金こがね
造づく りの太刀たち
を帯は き、紫宸殿ししんでん
の額がく の間ま
の長押なげし に尻しり
を掛か けてぞ居い
たりける。年二十七、大の男おとこ
の見目みめ よきが、装束しやうぞく
は美麗びれい なり、その心は知らねども、あつぱれ大将やとぞ見えたり。馬は、奥州あうしう
の基衡もとひら が六郡一の馬とて院へ進まゐ
られたりける黒き馬の、八寸やさ
余あま りなるに、金覆輪きんぶくりん
の鞍くら 置お
きて、右近うこん の橘たちばな
の木のもとに、東頭ひがしかしら
に引き立てたり。越後中将えちごのちゆうじやう成親なりちか
は、紺地こんぢ の錦の直垂に、萌黄よもぎ
匂にほ ひの鎧よろひ
に、鴛鴦をし の丸まる
を裾金物すそかなもの に打う
ちたりけり。白葦毛しろあしげ
なる馬に白覆輪しろぶくりん の鞍くら
置お きて、信頼の馬の南みなみ
に、同じ頭かしら に引き立てたり。成親、年とし
二十四、容儀ようぎ ・事柄ことがら
人に勝すぐ れてぞ見えける。 |
同二十七日、
「六波羅の兵どもが内裏へ攻め込んで来る」 との噂があり、大内の兵どもは甲冑をつけて待ち構えていた。中でも、大将右衛門督信頼は、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧に鍬形打った白星の甲の緒を締めて、黄金造りの太刀を身につけ、紫宸殿の額の間の長押に腰かけていた。年は二十七、大男で容貌もすぐれ、装束は美しかった。内心何を考えているかはうかがい知ることが出来ないにしても、大将たる人はかくばかりと見えた。馬は奥州の基衡が六郡一の馬とのふれこみで院に進上した、黒馬で、四尺八寸あまりに、金覆輪の鞍を置いて、右近の橘の木の下で、東に頭を向けて引き出していた。越後中将成親は、紺地の錦の直垂、萌黄匂いの鎧に、鴛鴦の丸を裾金物として打ち付けてあた。白葦毛の馬に白覆輪の鞍を置いて、信頼卿の馬の南に、同じく頭を東に向けて引き立てていた。成親は二十四歳、立ち居ふるまい、言葉つきともに人に勝れて見えた。 |
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左馬頭さまのかみ
義朝よしとも は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅くろいとおどし
の鎧に、鍬形打ちたる五枚まい
甲かぶと を着き
たりけり。年三十七、その気色きしよく
、人に替かは りて、あつぱれ大将軍だいしやうぐん
やとぞ見えし。黒馬くろむま に黒鞍くろくら
置お きて、日華門につくわもん
にぞ引き立てたる。出雲守いづものかみ
と伊賀守いがのかみ 、心替こころがは
りの見えければ、義朝、 「あはれ、討う
たばや」 と思へども、 「大事を前まへ
に当あた つて、私軍わたくしいくさ
して、敵かたき に力を付けんこと、口惜くちを
しかるべし」 とて、思ひ止とど
まる。 |
左馬頭義朝は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧に鍬形打った五枚甲を着用していた。年三十七、その風貌は人にすぐれ、ああ大将軍にふさわしい人と見えた。黒馬に黒い鞍を置いて、日華門に引き立てていた。出雲守と伊賀守に心変わりの気配が見えたので、義朝は、
「ああ、討ち取らねば」 と思ったが、大事を前にして、仲間うちの争いをしたのでは、敵に加勢することになり残念なことと思い直した。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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