信頼卿
は、さしも楽しみに誇り、いつもの事なれば、今夜こよひ
も沈酔ちんすい して臥ふ
したりけるが、女房にようぼう
どもに、 「ここ打う てや」
「かしこさすれや」 など言ひて、何心もなく、のびのびとして寝ね
たりけり。 |
信頼卿はあれだけ楽しみにふけって、いつものように、今夜も酒に酔いつぶれ臥しながら、女房どもに、
「ここを打て」 「あしこをさすれ」 など言って、何心配するというふうでもなく、寝ていた。 |
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二十七日の明あけ
ぼのに、越後中将えちごのちゆうじやう成親なりちか
、近付ちかづ ききて、 「いかにかくてはおはするぞ。行幸ぎやうがう
ははや他所たしよ へなり候ひぬ。また、それにつき、残のこ
り止とど まる卿相けいしやう
・雲客うんかく 一人いちにん
も候はず。御運うん の極きは
めとこそ思おぼ え候へ」 と告つ
げければ、信頼、 「よもさはあらじものを」 とて、急ぎ起き上がって、一本御書所いつぽんごしよどころへ参まゐ
りけれども、主上しゅしやう もおはしまさず。手をはたと打ちて走り帰り、中将の耳みみ
にささやきて、 「構かま へてこの事披露ひろう
したまふな」 と言ひければ、成親、世にをかしげにて、 「義朝よしとも
以下いげ の武士ども、みな存知して候ふものを」
と答へければ、信頼、 「出だ
し抜ぬ かれぬ、出し抜かれぬ」
と云い ひて、大の男の肥こ
え太ふと りたるが、躍り上がり躍り上がりしけれども、板敷いたじき
の響ひび きたるばかりにて、踊おど
り出い だしたる事もなし。 |
二十七日の曙に、越後中将成親が寄ってきて、
「こんなのんびりしている場合ではない。もはや天皇は他所へお移りだ。またそれにつき、ここに残り留まっている卿相雲客は一人もいない。御運は、もはや尽きたと思われます」
と告げたところ、信頼は、 「そんなことがあるわけがない」 とばかり、急ぎ起き上がって、一本御書所に出向いたが、天皇もいらっしゃらない。これは失態とばかり手をはたと打って走り帰って、中将の耳に、
「このことは絶対に口外してはならない」 とささやいたところ、成親はさもおかしげなふうをして、 「義朝以下の武士どもも皆存知しているところなのに」 と答えたので、信頼は
「出し抜かれてしまった。出し抜かれた」 とくやしがり、大男で肥えて太いのが跳びあがり跳びあがりしたが、板敷が響きわたるばかりで、たいして跳びあがっていたわけでもなかった |
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別当惟方べつたうこれかた
は、元より信頼卿親しみにて、その契約深かりしかども、光頼みつより
卿の諫いさ められし事、折に臨のぞ
みて悲しかりしかば、主上をもかように盗ぬす
み出い だし進まゐ
らせけり。それよりして、京中の人、 「中小ちゆうこ
別当べつたう 」 と申しけるを、大宮左大臣おほみやのさだいじん伊通公これみちこう
の申されけるは、 「この中小の別当の中は、中媒ちゆうばい
の中にてはよもあらじ。忠臣ちゆうしん
の忠ちゆう にてぞあるらん。その故ゆゑ
は、光頼卿が諫めし事により、惟方が過あやま
ちを改あらた め、また、賢者の余薫よくん
を以も って忠臣の振舞ふるまひ
をなす上は、忠の字こそ適かな
ひけれ」 と宣のたま へば、万人、実げ
にもと感じ申しけり。 |
別当惟方は、もともと信頼卿と親戚関係にあり、そのきずなも強かったが、光頼卿が忠告したことが折りに触れて反省させられ、天皇をもこのように盗み出したということだ。それ以来、京中の人々が
「中小別当」 と呼んでいるのを、大宮左大臣伊通公がおっしゃるには、 「この中小の別当の中は中をとりもつ中の意味ではない。忠臣の忠の意よ。そのわけは、光頼が忠告したことで惟方は誤りを改めたということ、賢者の余薫を以って忠臣の振舞いをした以上、忠の字がふさわしいことよ」
とのことで、なるほどと人々は皆感心した。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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