〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (上)

2012/08/22 (水) 内 裏 待 ち 受 け の 事

信頼卿のぶもりきやう は、さしも楽しみに誇り、いつもの事なれば、今夜こよひ沈酔ちんすい して したりけるが、女房にようぼう どもに、 「ここ てや」 「かしこさすれや」 など言ひて、何心もなく、のびのびとして たりけり。

信頼卿はあれだけ楽しみにふけって、いつものように、今夜も酒に酔いつぶれ臥しながら、女房どもに、 「ここを打て」 「あしこをさすれ」 など言って、何心配するというふうでもなく、寝ていた。

二十七日のあけ ぼのに、越後中将えちごのちゆうじやう成親なりちか近付ちかづ ききて、 「いかにかくてはおはするぞ。行幸ぎやうがう ははや他所たしよ へなり候ひぬ。また、それにつき、のことど まる卿相けいしやう雲客うんかく 一人いちにん も候はず。御うんきは めとこそおぼ え候へ」 と げければ、信頼、 「よもさはあらじものを」 とて、急ぎ起き上がって、一本御書所いつぽんごしよどころまゐ りけれども、主上しゅしやう もおはしまさず。手をはたと打ちて走り帰り、中将のみみ にささやきて、 「かま へてこの事披露ひろう したまふな」 と言ひければ、成親、世にをかしげにて、 「義朝よしとも 以下いげ の武士ども、みな存知して候ふものを」 と答へければ、信頼、 「 かれぬ、出し抜かれぬ」 と ひて、大の男のふと りたるが、躍り上がり躍り上がりしけれども、板敷いたじきひび きたるばかりにて、おど だしたる事もなし。
二十七日の曙に、越後中将成親が寄ってきて、 「こんなのんびりしている場合ではない。もはや天皇は他所へお移りだ。またそれにつき、ここに残り留まっている卿相雲客は一人もいない。御運は、もはや尽きたと思われます」 と告げたところ、信頼は、 「そんなことがあるわけがない」 とばかり、急ぎ起き上がって、一本御書所に出向いたが、天皇もいらっしゃらない。これは失態とばかり手をはたと打って走り帰って、中将の耳に、 「このことは絶対に口外してはならない」 とささやいたところ、成親はさもおかしげなふうをして、 「義朝以下の武士どもも皆存知しているところなのに」 と答えたので、信頼は 「出し抜かれてしまった。出し抜かれた」 とくやしがり、大男で肥えて太いのが跳びあがり跳びあがりしたが、板敷が響きわたるばかりで、たいして跳びあがっていたわけでもなかった
別当惟方べつたうこれかた は、元より信頼卿親しみにて、その契約深かりしかども、光頼みつより 卿のいさ められし事、折にのぞ みて悲しかりしかば、主上をもかようにぬす だしまゐ らせけり。それよりして、京中の人、 「中小ちゆうこ 別当べつたう 」 と申しけるを、大宮左大臣おほみやのさだいじん伊通公これみちこう の申されけるは、 「この中小の別当の中は、中媒ちゆうばい の中にてはよもあらじ。忠臣ちゆうしんちゆう にてぞあるらん。そのゆゑ は、光頼卿が諫めし事により、惟方があやま ちをあらた め、また、賢者の余薫よくん って忠臣の振舞ふるまひ をなす上は、忠の字こそかな ひけれ」 とのたま へば、万人、 にもと感じ申しけり。
別当惟方は、もともと信頼卿と親戚関係にあり、そのきずなも強かったが、光頼卿が忠告したことが折りに触れて反省させられ、天皇をもこのように盗み出したということだ。それ以来、京中の人々が 「中小別当」 と呼んでいるのを、大宮左大臣伊通公がおっしゃるには、 「この中小の別当の中は中をとりもつ中の意味ではない。忠臣の忠の意よ。そのわけは、光頼が忠告したことで惟方は誤りを改めたということ、賢者の余薫を以って忠臣の振舞いをした以上、忠の字がふさわしいことよ」 とのことで、なるほどと人々は皆感心した。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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