〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (上)

2012/08/21 (火) 院の御所仁和寺に御幸の事

同二十六日の夜 けて、蔵人右少弁くらんどのうせうべん 成頼なりより一本御書所いつぽんごしよどころまゐ りて、 「君はいかにおぼ され候ふ。世の中は今夜の明けぬさき に乱るべきにて候ふ。経宗つねむね惟方これかた 等は、申し入るるむね は候はざりけるにや、他所へ行幸ぎやうかう もなさらせたまひ候ふべきにて候ふなり。急ぎ急ぎ、何方いづかた へも御幸ごかう ならせおはしまし候へ」 とそう しければ、上皇しやうくわう 、驚かせたまひて、 「仁和寺にんわじかた へこそおぼ ため」 とて、殿上人体てんじやうびとてい に御姿をやつさせたまひて、まぎ でさせたまひけり。上西門しやうさいもん の前にて、北野きたのかたをが ませたまひて、そののち 、御馬にたてまつ る。一天のあるじ にてましまししかども、供奉ぐぶ卿相けいしやう雲客うんかく 一人いちにん もなし。御馬にまか せて御幸なる。
同二十六日の夜ふけ頃、蔵人右少弁成頼が一本御書所に参って、 「君にjはごうお考えでしょう。世の中は今夜、夜も明けぬうちにどうなるかわかりません。経宗・惟方等は何も報告していませんでしょうか、天皇はよそへ行幸とのことです。上皇も何方へなりと御幸なさってください」 と申しあげたところ、上皇は驚きになって、 「仁和寺の方へ出向こう」 とのことだったから、殿上人の姿にやつして、夜の闇に紛れてお出になった。上西門の前で、北野神社の方を伏し拝み、その後、御馬に乗せたてまつる。一天の主でいらしたにもかかわらず、供する卿相、雲客は一人もいない。御馬に乗っての御幸であった。
まだあかつき ならぬ夜半よは なれば、有明ありあけ けの月も でず、北山颪きたやまおろし の音寒く、くも り降る雪に、御幸なりぬべき道もなし。草木に風のそよめくをも、つはもの どもの追ひ奉るかと御きも させたまひけり。さてこそ、保元ほうげんみだ れの時、讃岐院さぬきのいん如意山によいさん に御幸なりける事もおぼ でさせたまひけれ。されども、それは家弘いへひろ などもありければ、敗軍なれどもたの もしくおぼ されけん、これも、さるべきを、一人いちにん も候はねば、おほ はするかた もなし。さるままに、御心の中にさまざまの御願ごぐわん をぞ立てさせたまひける。世静まりて後、日吉社ひよしのやしろ へ御幸なりたりしも、その時の御ぐわん ぞと聞えし。
まだ、夜明けには間のある夜半のことで、有明の月も出ておらず、北山おろしの風は寒々とひぎき、空かきくもって降り来る雪のために、御幸の道もどこと定め難い。草木に風が当たりそとめく音も、兵どもが追いかけて来たのかと肝を冷やしなさる。それにしても、保元の乱に際し、讃岐院が如意山に御幸なさったことも思い出しておられた。しかし、その時は、家弘なども随っていたのだから、敗軍ながら頼もしくお思いだったことだろうに、これも同じように誰かがお側にいてもよいのに、一人の供もいないのだから、何の相談をなさることも出来ない。しかたなく、御心の中に様々の御願をたてなさった。世の中が静まった後日、日吉社へ御幸なさったのも、その時の御願ゆえのことであった。
とかくして、仁和寺に着かせおはします。事のよしおほ せければ、法親王ほつしんわう 、大きに御喜びありて、御 しつらひて入れまゐ らせ、供御くご などすす め申して、かひがひしくもてなしまゐ らせたまひけり。一年ひととせ 、讃岐院の らせたまひたりけるには、寛遍法務坊くわんべんほふむぼうへ入れまゐ らせて、さまでの御もてなしはなかりき。同じき御兄弟の御中なれども、事のほかにぞ はらせたまひける。
ともかくも仁和寺にお着きになった。この間の事情を説明なさったところ、法親王はたいそうお喜びで、御座を用意して寺内にお入れし、食事などをおすすめして、丁重にもてなされた。かつて、讃岐院がこの仁和寺にお入りになった時は、寛遍法務坊にお入れして、それほどのもてなしはしなかった。同じ御兄弟とはいいながら、その摂待にはたいそうな違いがあった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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