同二十六日の夜更
けて、蔵人右少弁くらんどのうせうべん
成頼なりより 、一本御書所いつぽんごしよどころに参まゐ
りて、 「君はいかに思おぼ し召め
され候ふ。世の中は今夜の明けぬ先さき
に乱るべきにて候ふ。経宗つねむね
・惟方これかた 等は、申し入るる旨むね
は候はざりけるにや、他所へ行幸ぎやうかう
もなさらせたまひ候ふべきにて候ふなり。急ぎ急ぎ、何方いづかた
へも御幸ごかう ならせおはしまし候へ」
と奏そう しければ、上皇しやうくわう
、驚かせたまひて、 「仁和寺にんわじ
の方かた へこそ思おぼ
し立た ため」 とて、殿上人体てんじやうびとてい
に御姿をやつさせたまひて、紛まぎ
れ出い でさせたまひけり。上西門しやうさいもん
の前にて、北野きたの の方かた
を伏ふ し拝をが
ませたまひて、その後のち 、御馬に奉たてまつ
る。一天の主あるじ にてましまししかども、供奉ぐぶ
の卿相けいしやう ・雲客うんかく
一人いちにん もなし。御馬に任まか
せて御幸なる。 |
同二十六日の夜ふけ頃、蔵人右少弁成頼が一本御書所に参って、
「君にjはごうお考えでしょう。世の中は今夜、夜も明けぬうちにどうなるかわかりません。経宗・惟方等は何も報告していませんでしょうか、天皇はよそへ行幸とのことです。上皇も何方へなりと御幸なさってください」
と申しあげたところ、上皇は驚きになって、 「仁和寺の方へ出向こう」 とのことだったから、殿上人の姿にやつして、夜の闇に紛れてお出になった。上西門の前で、北野神社の方を伏し拝み、その後、御馬に乗せたてまつる。一天の主でいらしたにもかかわらず、供する卿相、雲客は一人もいない。御馬に乗っての御幸であった。 |
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まだ暁あかつき
ならぬ夜半よは なれば、有明ありあけ
けの月も出い でず、北山颪きたやまおろし
の音寒く、掻か き曇くも
り降る雪に、御幸なりぬべき道もなし。草木に風のそよめくをも、兵つはもの
どもの追ひ奉るかと御肝きも を消け
させたまひけり。さてこそ、保元ほうげん
の乱みだ れの時、讃岐院さぬきのいん
の如意山によいさん に御幸なりける事も思おぼ
し召め し出い
でさせたまひけれ。されども、それは家弘いへひろ
などもありければ、敗軍なれども頼たの
もしく思おぼ し召め
されけん、これも、さるべきを、一人いちにん
も候はねば、仰おほ せ合あ
はする方かた もなし。さるままに、御心の中にさまざまの御願ごぐわん
をぞ立てさせたまひける。世静まりて後、日吉社ひよしのやしろ
へ御幸なりたりしも、その時の御願ぐわん
ぞと聞えし。 |
まだ、夜明けには間のある夜半のことで、有明の月も出ておらず、北山おろしの風は寒々とひぎき、空かきくもって降り来る雪のために、御幸の道もどこと定め難い。草木に風が当たりそとめく音も、兵どもが追いかけて来たのかと肝を冷やしなさる。それにしても、保元の乱に際し、讃岐院が如意山に御幸なさったことも思い出しておられた。しかし、その時は、家弘なども随っていたのだから、敗軍ながら頼もしくお思いだったことだろうに、これも同じように誰かがお側にいてもよいのに、一人の供もいないのだから、何の相談をなさることも出来ない。しかたなく、御心の中に様々の御願をたてなさった。世の中が静まった後日、日吉社へ御幸なさったのも、その時の御願ゆえのことであった。 |
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とかくして、仁和寺に着かせおはします。事の由よし
を仰おほ せければ、法親王ほつしんわう
、大きに御喜びありて、御座ざ
しつらひて入れ進まゐ らせ、供御くご
など勧すす め申して、かひがひしくもてなし進まゐ
らせたまひけり。一年ひととせ
、讃岐院の入い らせたまひたりけるには、寛遍法務坊くわんべんほふむぼうへ入れ進まゐ
らせて、さまでの御もてなしはなかりき。同じき御兄弟の御中なれども、事のほかにぞ変か
はらせたまひける。 |
ともかくも仁和寺にお着きになった。この間の事情を説明なさったところ、法親王はたいそうお喜びで、御座を用意して寺内にお入れし、食事などをおすすめして、丁重にもてなされた。かつて、讃岐院がこの仁和寺にお入りになった時は、寛遍法務坊にお入れして、それほどのもてなしはしなかった。同じ御兄弟とはいいながら、その摂待にはたいそうな違いがあった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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