さるほどに、今夕
、清盛きよもり は熊野路くまのみち
より下向げかう しけるが、稲荷社いなりのやしろ
に参まゐ りて、各々おのおの
杉すぎ の枝えだ
を折り、鎧よろひ の袖そで
ににかざして、六波羅ろくはら
へぞ着きにける。大内では、 「今夜こよひ
もや六波羅より寄よ せんずらん」
とて、甲かぶと の緒を
を締し めて待ちけれども、その儀ぎ
もなくて明けにけり。 |
さて、今夕、清盛は熊野路から帰って来たが、まず稲荷社に詣でて、めいめい杉の枝を折り、鎧の袖に差し、六波羅に帰り着いた。大内では、
「今夜にも六波羅から押し寄せてくることもあろうか」 と用心して、甲の緒を締めて待ち構えていたが、そのような様子もなくて、夜が明けた。 |
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廿日はつか
、殿上でんじやう にて、公卿僉議くぎやうせんぎ
あるべしとて、大殿おほとの ・関白殿くわんぱく
・太政大臣だじやうだいじん 師賢もろかた
・左大臣さだいじん 伊通これみち
、その他ほか 公卿・殿上人でんじやうびと
、各々馳は せ参まゐ
られけり。これは少納言入道せうなごんにふだう
の子息しそく 、僧俗そうぞく
十二人の罪名ざいみやう を定さだ
め申されむがためなり。大宮左大臣おほみやのさだいじん伊通公の宥なだ
め申されけるによって、死罪しざい
一等いつとう を減げん
じて、遠流をんる に処せられける。昨日もこの儀あるべかりしかども、光頼卿みつよりきやう
の着座によって、万事うちさまして、今日けふ
この儀あるとぞ聞こえし。新宰相しんさいしょう
俊憲としのり 出雲国いづものくに
、播磨中将はりまのちゆうじやう成憲しげのり
下野国しもつけのくに 、右中弁うちゆうべん
定憲さだのり 土佐国とさのくに
、美濃少将みののせうしやう 脩憲ながのり
隠岐国おきのくに 、信濃守しなののかみ
惟憲これのり 佐渡国さどのくに
、法眼静憲ほうげんじやうけん
安房国あわのくに 、憲耀けんえう
陸奥国むつのくに 、覚憲かくけん
伊予国いよのくに 、明遍みやうへん
越後国えちごのくに 、澄憲ちようけん
信濃国しなののくに 、かように国々くにぐに
へぞ流されたる。 |
二十日、殿上の間で公卿僉議の予定とのことで、大殿・関白殿・太政大臣師賢・左大臣伊通、そのほか公卿殿上人がめいめい急いで参内した。これは、少納言入道の子息、僧俗あわせて十二人の罪を評定せんがためである。大宮左大臣伊通公は寛大な処置を主張したので、死罪になるはずが減刑して遠流の処分となった。昨日の公卿僉議でもこのことが咨はか
られるはずであったが、光頼卿の着座事件の混乱で、評定するどころではなくなり、今日この決定がなされたということだ。新宰相俊憲は出雲国、播磨中将成憲は下野国、右中弁定憲は土佐国、美濃少将脩憲は隠岐国、信濃守惟憲は佐渡国、法眼静憲は安房国、憲耀は陸奥国、覚憲は伊予国、明遍は越後国、澄憲は信濃国と、このように諸国に流罪となった。 |
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同二十三日、大内おほうち
の兵つはもの ども、 「六波羅より寄す」
とて、甲の緒を締めて待ちけれども、その儀なし。去さ
んぬる十日より、六波羅には 「大内より寄す」 とて騒ぎ、内裏だいり
には 「六波羅より寄す」 とてひしめく。源平両家の兵ども、白旗しらはた
、赤印あかじるし 、馳は
せ違ちが ふ事、隙ひま
もなし。年も既に暮れなんとす。しかれども、元日元三ぐわんざん
の営いとな みにも及およ
ばず、安心もなかりければ、 「ともかくも、事落居らつきよ
して、世間せけん 静しづ
かなれかし」 とぞ、京中の上下歎なげ
きけれ。 |
同二十三日、内裏に詰めている兵どもは、
「六波羅から攻め寄せて来るにちがいない」 と、甲の緒を締めて待ち構えていたが、その様子はなかった。去る十日から、六波羅では 「内裏から攻め寄せて来るだろう」
と騒ぎあい、内裏の方でも 「六波羅から攻め寄せて来るにちがいない」 とひしめきあっていた。源平両家の兵ども、白旗、赤印が馳せ違ってたえまがない。今年はもはや暮れようとしている。しかし、元日元三の行事をするなどゆとりもなく、心安らかに過ごすことも出来ず、なにかと落ち着かないものだから、
「この騒動が収まって、世の中静かになってもらいたいもの」 と京の人々は皆歎きあった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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