「朝餉
の方かた に人音ひとおと
のして、櫛形くしがた の穴に人影かげ
のしつる、何者ぞ」 と問ひたまへば、別当、 「それは右衛門督の住み候へば、その方かた
ざまの女房にようぼう などぞかげろひ候ひつらん」
と申されければ、光頼卿、聞きも敢へず、 「世の中、今はかうごさんなれ。主上のわたらせたまふべき朝餉あさがれひ
には、右衛門督住みて、君をば黒戸の御所に移し進まゐ
らせたんなる。末代なれども、日月じつげつ
いまだ地に堕お ちたまはず。いかなる前世ぜんぜ
の宿業しゅくごふ にて、かかる世に生しやう
を受けて、憂う き事のみ見聞くらん。人臣の王位を奪ふ事、漢朝かんてう
にはその例ありといへども、本朝ほんてう
にはいまだかくのごときの先規せんぎ
を聞かず。天照大神てんせうだいじん
・正八幡宮しやうはちまんぐう
は、王法わうほふ をばなにと守まぼ
らせたまふぞや」 と、憚はばか
る所もなく打う ち口説くど
きたまへば、別当は、 「人も聞くらん」 と、世にすさまじげにてぞ立たれける。 |
「朝餉の間の方で人の声がして、櫛方の穴に人影が映っているぞ。何者がいるのだ」
と質したところ、別当が、 「右衛門督がそこに住んでいらっしゃるので、女房達の姿がちらちらするのでしょう」 と答えたので、それを聞くや、光頼卿は、 「世の中、今はもはやこれまでだ。天皇がお住まいになるべき朝餉の間に右衛門督が居座って、天皇を黒戸の御所に追い遣っている。世は末代といえども、すたれきっているというわけでもあるまい。どんな前世の宿業で、このような世に生まれ、かくもつらい事を見聞きせねばならないのだろう。人臣の身として王位を奪うなどということは、漢朝にはその例があるとしても、本朝ではいまだかってこのようなことがあったなど聞いたことはない。天照大神・正八幡宮は王法をどう守ろうとなさっているのか」
と、何遠慮することなくくどくどと言いかけたので、別当は、 「人に聞かれてはまずいこと」 と、あきれ返った様子で離れていった。 |
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「昔の許由きよいう
は悪しき事を聞きて潁川えいせん
に耳をこそ洗ひしか。この時の内裏だいり
の有様ありさま を見聞みき
きては、耳をも目をも洗ひぬべくぞ思おぼ
ゆる」 とて、上いへ の衣きぬ
の袖そで 萎しを
るるばかりにてぞ出い でられける。 右衛門督の座上ざじやう
に着きたまひし時は、さしもゆゆしげにこそ見えたまひしに、今、君の御有様を見進まゐ
らされては、顔色がんしよく 変はりたまひて、打う
ち萎しを れてぞ出い
でたまひける。信頼卿は、常つね
は小袖こそで に赤き大吊子紙おほかみこ
入れてぞありける。偏ひとへ に天子の御振舞ふるまひ
のごとくなり。 |
「昔の許由は悪事を聞くや、潁川で耳を洗った。今の内裏の様子を聞いては、耳の目も洗わねば気がすまない」
と、光頼は上の衣の袖を涙でびっしょいり濡らして退出した。右衛門督の座上に着席なさった時は、あれほど毅然となさっていたのに、今、院や天皇のご様子を聞くや、顔色も変って、すっかりしょんぼりとして退出された。信頼卿はいつも着用の小袖に赤い大吊子紙を入れていた。まるで、天皇のなさる振舞いのようである。
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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