〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (上)

2012/08/17 (金) 六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事 (三)

重盛、前後のぜい見亘みわた して、 「悪源太あくげんた が待つと聞く。阿倍野にて にせん事只今ただいま なり。少しも後足うしろあし まん人々は、戦場せんじやう にて げんは見苦みぐる しかるべし。ここよりいとま 申してとど まれ」 とのたま ひければ、つはもの ども、皆、 「御返事ぺんじ には進むにしかじ」 とて、各々さきあらそほど に、和泉いづみ紀伊国きいのくにさかひ なる小野山おのやま にこそ きにけれ。ここにて、腹巻はらまき矢負やお ひ、弓持ちたる者、葦毛あしげ なるむま りたるが、道のほとり にてむま より り、かしこ まってぞゐたりける。 「何者なにもの ぞ」 と へば、 「六波羅より御使つかひ 」 と答ふ。事の子細しさい を問ひたまへば、 「過ぎぬ夜半やはん に、六波羅殿ろくはらどの をばまか で候ふ。また、その時まではべち の御事候はず。大弐だいに 殿こそ物詣ものまうであと なりとも、留守るす の人々は大内おほうち へ御まゐ り候へと、御使しきりに め申し候ひつれども、 『ただ今、ただ今』 と御返事ぺんじ 候ひて、今まではこも つておはしまし候ふなり。播磨中将はりまのちうじやう 殿こそ、十日のあかつき 、六波羅殿へ逃げ籠らせたまひて候ひしを、院宣ゐんぜん とて御使つかひ しき りに責め申され候ふほど に、ちから およ ばず、 だしまい らせられ候ひぬ」 と申しければ、重盛、聞きたまひて、 「さればとよ、たの もしくも思ひて逃げ入りたる播磨中納言を だしたるらん。口惜くちを しき事をもし だしたる人どもや。さても道のあひだ に何事かありつる」 「べち の子細も候はず。天王寺・阿倍野にこそ、伊勢いせ伊藤武者いとうむしや 景綱かげつな館太郎たてのたろう 貞保さだやす後平四郎ごへいしろう 実景さねかげ など、少々用意ようい して待ちまゐ らせ候ひつるが、 『いづくまでも参るべく候へども、これよりみなみ には何事なにごと かおはすべき。ここにて馬あし を休め、御大事に会ふべき』 よし 、申し候ひつるなり。その勢三百騎ばかりぞ候ふらん。伊賀・伊勢の御家人ども、おく せ集まると承り候ひつれば、今は四、五百にもなりて候ふらん」 と申せば、 「悪源太とはこれを ひけるぞ」 と、皆人、色をぞなほ しける。

重盛は前後の軍勢を見渡して、 「悪源太が待ち構えているということだ。阿倍野で討死するのは今この時だ。少しでもひる者のがいたら、戦場で逃げ出すなど見苦しいことよ。別れて、ここに留まれ」 と言ったので、兵どもは皆、この御返事には馬を進ませるのがよき返事とばかり、めいめい先を争って馬を駆けさせているうちに、和泉と紀伊国の境にある小野山に到着した。
ここで、腹巻姿に矢を背負い、弓を持った者が葦毛の馬に乗っていたが、道のほとりに馬から下りて、畏まって控えていた。 「何者だ」 と問いただ したところ、 「六波羅からの使者」 と答える。京の大事の詳細を尋ねたところ、 「昨晩夜半に、六波羅殿を出発いたしました。その時まではさして特別なことはございません。大弐殿こそ物詣ででご不在とはいっても、留守の人々は大内参上するようにと御使者が頻りにせかしましたが、 『ただ今、ただ今』 とだけ返事申して、今まで引き籠もっていらした。播磨中将殿は十日の夜の明け方、六波羅殿へ逃げ籠もっていらしたが、院宣と称して御使が頻りに責めるので、いたしかたなく、六波羅どのからお出ししました」 と申したので、重盛はこれを聞いて、 「それにつけても、頼りにして逃げ込んできた播磨中将を追い出したとは、残念ことをする者どもよ。ここまでの道中、何があったか」 と尋ねた。 「他でもありません。天王寺や阿倍野に伊勢の伊藤武者景綱や館太郎貞歩や後平四郎実景など、少々兵を集めて待ちかまえているが、 『どこまでも参るべきであろうが、これから南には何があるかわからない。ここで馬に飼葉をやって脚を休めさせて、いざ決戦に備えよう』 と申しております。その勢は三百騎ほどでしょう。伊賀や伊勢の御家人どもも遅れ馳せ集まったとのことですから、今はもう四、五百騎になったことでしょう」 と申したところ、 「先ほどの悪源太が待ちかまえているとの報告はこれを言っていたのだ」 と皆顔色をとりもどした。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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