重盛、前後の勢
を見亘みわた して、 「悪源太あくげんた
が待つと聞く。阿倍野にて討う
ち死じ にせん事只今ただいま
なり。少しも後足うしろあし を踏ふ
まん人々は、戦場せんじやう にて逃に
げんは見苦みぐる しかるべし。ここより暇いとま
申して留とど まれ」 と宣のたま
ひければ、兵つはもの ども、皆、
「御返事ぺんじ には進むにしかじ」
とて、各々前さき を諍あらそ
ひ打う つ程ほど
に、和泉いづみ ・紀伊国きいのくに
の境さかひ なる小野山おのやま
にこそ着つ きにけれ。ここにて、腹巻はらまき
に矢負やお ひ、弓持ちたる者、葦毛あしげ
なる馬むま に乗の
りたるが、道の辺ほとり にて馬むま
より下お り、畏かしこ
まってぞゐたりける。 「何者なにもの
ぞ」 と問と へば、 「六波羅より御使つかひ
」 と答ふ。事の子細しさい を問ひたまへば、
「過ぎぬ夜半やはん に、六波羅殿ろくはらどの
をば罷まか り出い
で候ふ。また、その時までは別べち
の御事候はず。大弐だいに 殿こそ物詣ものまうで
の後あと なりとも、留守るす
の人々は大内おほうち へ御参まゐ
り候へと、御使しきりに責せ め申し候ひつれども、
『ただ今、ただ今』 と御返事ぺんじ
候ひて、今までは引ひ き籠こも
つておはしまし候ふなり。播磨中将はりまのちうじやう
殿こそ、十日の夜よ の暁あかつき
、六波羅殿へ逃げ籠らせたまひて候ひしを、院宣ゐんぜん
とて御使つかひ 頻しき
りに責め申され候ふ程ほど に、力ちから
及およ ばず、出い
だし進まい らせられ候ひぬ」
と申しければ、重盛、聞きたまひて、 「さればとよ、頼たの
もしくも思ひて逃げ入りたる播磨中納言を出い
だしたるらん。口惜くちを しき事をもし出い
だしたる人どもや。さても道の間あひだ
に何事かありつる」 「別べち
の子細も候はず。天王寺・阿倍野にこそ、伊勢いせ
の伊藤武者いとうむしや 景綱かげつな
。館太郎たてのたろう 貞保さだやす
・後平四郎ごへいしろう 実景さねかげ
など、少々用意ようい して待ち進まゐ
らせ候ひつるが、 『いづくまでも参るべく候へども、これより南みなみ
には何事なにごと かおはすべき。ここにて馬飼か
う脚あし を休め、御大事に会ふべき』
由よし 、申し候ひつるなり。その勢三百騎ばかりぞ候ふらん。伊賀・伊勢の御家人ども、後おく
れ馳は せ集まると承り候ひつれば、今は四、五百にもなりて候ふらん」
と申せば、 「悪源太とはこれを言い
ひけるぞ」 と、皆人、色をぞ直なほ
しける。 |