かかりけるところに、都
より、左馬頭さまのかみ 義朝よしとも
が嫡子ちやくし 、悪源太あくげんた
義平よしひら を大将たいしやう
として、熊野くまの の路みち
へ討手うつて に向ふが、摂津国せつつのくに
、天王寺てんわうじ 、阿倍野あべの
の松原まつばら に、陣じん
を取りて、清盛の下向げかう を待つとぞ聞きこ
こえける。清盛宣のたま ひけるは、
「悪源太あくげんだ 大勢おほぜい
にて待たんには、都みやこ へ上のぼ
りえずして、阿倍野・天王寺のあひだに死骸しかばね
を留とど めんこと、理の勇士ゆうじ
にあるべからず。所詮しよせん
、当国たうごく の浦うら
より、舟を集めて、四国しこく
の地ち に押お
し渡わた り、鎮西ちんぜい
の軍勢ぐんぜい を催もよほ
し、都みやこへ攻せ
め上のぼ りて、逆囚ぎやくしう
を亡ぼし、君きみ の御憤いきどほ
りを休やす め奉らばやと存ぞん
ずる。各々おのおの いかが」
とありしかば、重盛、進み出い
でて申されけるは、 「この仰おほ
せ、さる御ことにて候へども、重盛が愚案ぐあん
には、院いん ・内ない
を大内おほうち に取と
り籠こ め奉るうへは、今は定さだ
めて諸国しよこく へ宣旨せんじ
・院宣いんぜん をぞなし下すらん。朝敵てうてき
になりては、四国しこく ・九国くこく
の軍勢ぐんぜい もさらに従したが
ふべからず。君きみ の御事と申し、六波羅ろくはら
の留守るす のためといひ、公私こうし
につきて、暫しばら くも滞とどこほ
るべからず。筑後守ちくごのかみ
、いかが」 と宣へば、家貞いへさだ
、涙なみだ をはらはらと流し、
「今に始はじ めぬ御事にて候へども、この仰おほ
せ、清すず しく思おぼ
え候ふ」 。難波なんば 三郎経房つねふさ
も、 「かうこそ」 と同心して、御前を立ち、馬むま
に打ち乗り、北きた へ向むか
ひて歩あゆ ませければ、清盛も、この人々の心を感じて、同じ様さま
にぞ振舞ふるま ひける。 |