〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (上)

2012/08/17 (金) 六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事 (二)

かかりけるところに、みやこ より、左馬頭さまのかみ 義朝よしとも嫡子ちやくし悪源太あくげんた 義平よしひら大将たいしやう として、熊野くまのみち討手うつて に向ふが、摂津国せつつのくに天王寺てんわうじ阿倍野あべの松原まつばら に、じん を取りて、清盛の下向げかう を待つとぞきこ こえける。清盛のたま ひけるは、 「悪源太あくげんだ 大勢おほぜい にて待たんには、みやこのぼ りえずして、阿倍野・天王寺のあひだに死骸しかばねとど めんこと、理の勇士ゆうじ にあるべからず。所詮しよせん当国たうごくうら より、舟を集めて、四国しこくわた り、鎮西ちんぜい軍勢ぐんぜいもよほ し、みやこのぼ りて、逆囚ぎやくしう を亡ぼし、きみ の御いきどほ りをやす め奉らばやとぞん ずる。各々おのおの いかが」 とありしかば、重盛、進み でて申されけるは、 「このおほ せ、さる御ことにて候へども、重盛が愚案ぐあん には、いんない大内おほうち め奉るうへは、今はさだ めて諸国しよこく宣旨せんじ院宣いんぜん をぞなし下すらん。朝敵てうてき になりては、四国しこく九国くこく軍勢ぐんぜい もさらにしたが ふべからず。きみ の御事と申し、六波羅ろくはら留守るす のためといひ、公私こうし につきて、しばら くもとどこほ るべからず。筑後守ちくごのかみ 、いかが」 と宣へば、家貞いへさだなみだ をはらはらと流し、 「今にはじ めぬ御事にて候へども、このおほ せ、すず しくおぼ え候ふ」 。難波なんば 三郎経房つねふさ も、 「かうこそ」 と同心して、御前を立ち、むま に打ち乗り、きたむか ひてあゆ ませければ、清盛も、この人々の心を感じて、同じさま にぞ振舞ふるま ひける。

このようにしているところに、都から左馬頭義朝の嫡男悪源太義平を大将として、熊野路目指して討手に向かったが、摂津国天王寺、阿倍野の松原に陣を構えて、清盛が帰って来るところを待ち構えているとの噂があった。清盛が言うには、 「悪源太が大勢で待ち構えているのでは、とうてい都に上る事は出来ず、阿倍野と天王寺の間で合戦の果てに、死骸をたくさん残すことになるなど、道理を弁えた勇士の振舞いとは言えない。所詮、この紀伊国の浦から、船を集めて四国に渡り、九州の軍勢にも加勢頼んで、都へ攻め上り、叛逆の輩を亡ぼし、君の御怒りを和らげたいものと考えている。おのおの、どうしたものか」 と言ったので、重盛が進み出て言った事には、 「この仰せ、もっともなことではありますが、重盛が考えるに、上皇と天皇を大内に閉じ込めている以上、今はきっと諸国へ宣旨や院宣が下されていることだろう。朝敵となってしまったからには、四国や九州の軍勢も従うはずがない。君の大事といい、また六波羅を留守にしているがために起こったことといい、しばらくの猶予も許されない。筑後守、どうだ」 と言ったので、家貞は涙をはらはらと流し、 「今に始まった事ではありませんが、この仰せは潔く思われます」 と答えた。難波三郎経房も、もっともなことと同心して、退出して、馬に乗り、北に向かって歩ませたので、清盛もこの人々の心意気に感心して、同じ様に振る舞った。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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