紀二位
の心中、思ひ遣や るこそいとほしけれ。入道にふだう
の行末ゆくすゑ をだに知らで、歎なげ
く心も類たぐ ひなきに、 「死骸しかばね
を掘ほ り出い
だして、首を切りて、大路おほぢ
を渡わた して、獄門ごくもん
の木に梟か けられぬ」 と聞きて、いかばかりの事をか思ふらん。
「海山うみやま とも頼み奉る君きみ
は取と り籠こ
められたまひ、月日の光ひかり
をだにも御覧らん ぜず。僧俗そうぞく
十二人の子息は面々めんめん に召め
し置かれて、死生しやうじ 未いま
だ定まらず。我も、女の身なれども、何いか
なる目にか遭あ はんずらん」
と、伏ふ し沈しづ
みてぞ泣きゐたる。 |
紀二位の夫への思いはやるせない。入道の行方も知らぬまま歎くのもこのうえなく悲痛なことなのに、死骸を掘り出し首を切って大路渡しをされ、獄門の木にかけてさらされたと聞いて、どんな思いでいらっしゃることだろう。たいそう頼りになさっている君は監禁され、月日の光をさえご覧になれない身の上になった。僧俗十二人の子息はそれぞれに捕らえられて、いかなる処罰を受けるものかいまだわからぬまま、女の身ながら自分もどんな目にあうのだろうと暗澹あんたん
たる思いで泣いていた。 |
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さる程ほど
に、清盛きよもり は熊野参詣くまのさんけい
、切目きりめ の宿やど
にて、六波羅ろくはら の早馬はやむま
追お つ付つ
きけり。使者ししや 申しけるは、
「衛門督殿えもんのかみどの 、左馬頭殿さまのかみどの
、去さ んぬる九日の夜、院御所いんのごしよ
三条殿さんでうどの へ押お
し寄よ せて、火ひ
を懸か けられて候ふあひだ、院いん
・内ない も煙けぶり
の中を出い でさせたまはずと申す。また、大内おほうち
へ御幸ごかう なりぬとも聞きこ
こえ候ふ。少納言入道せうなごんにふだういの御一門、皆みな
焼け死にたまひぬ」 など申しあひ候ふ。 「この事は、日ごろよりの支度したく
にて候ふか。源氏げんじ の郎従らうじゆう
ども、京中に上のぼ り集まりて候ふ。少納言入道せうなごんにふだう、身の上までにて候はず、御当家ごたうけ
もいかが、など密言ささや き候ふぞ」
と申しける。 |
清盛が熊野参詣の途中、切目の宿で、六波羅の早馬が追い付いた。使者が申すには、
「衛門督殿と左馬頭殿が去る九日の夜、院の御所三条殿へ押し寄せ火をかけたので、院・内も火煙の噫中を脱け出すことがお出来なならなかったとも言っております。また、大内へ御幸なさったとの噂もあります。少納言入道の御一族は皆焼け死になさった」
などと報告した。 「このことは日頃から準備していたことでしょうか。源氏の郎従どもが、京中に上り集まっております。少納言入道の身の上だけではなく、御当家平氏一門もどうなることやらなど、ささやかれております」
とも報告した。 |
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清盛一族、家僕かぼく
、一所いつしよ に寄り合ふ。
「このこといかがあるべき」 と評定ひやうぢやう
す。清盛宣のたま ひけるは、
「これまで参まい りたれども、朝家てうか
の御大事出い で来き
たるうえは、先達せんだち ばかりを進まい
らせて、下げ するより他ほか
は、多事たじ なし。但ただ
し、兵具ひやうぐ もなきをば何いか
がせん」 と宣へば、筑後守ちくごのかみ
家貞いえさだ 、 「少々は用意ようい
仕つかまつ りて候ふ」 とて、長櫃ながびつ
五十合がふ 、日頃ひごろ
は何物なにもの を入れたるとも人には知らせず、勢ぜい
より少し引き下げて舁か かせたりけるを、召め
し寄よ せて、蓋ふた
を開ひら きたるを、見れば、いろいろの鎧よろい
に太刀たち と矢や
を入れたるを、取と り出い
だす。竹の朸あふご 五十、節ふし
を突つ いて、弓五十張ちやう
入れて持たせけり。 「家貞いへさだ
は、実まこと に武勇ぶゆう
の達者たつしや 、思慮しりよ
深ふか き兵ゆはもの
なるぞ」 と、重盛しげもり は感かん
じたまひける。紀伊国きいのくに
にも、当家たうけ の名を懸か
けたる家人けにん どもありけるが、この事を聞き
きて馳は せ来き
たりけれども、物もの 具ぐ
したる武者むしや 百騎き
ばかりには過すぎざりけり。 |
清盛一族や家僕はひとところに集まった。そして、この度の大事をどうしたものか相談した。清盛が言うには、
「ここまでやって来たが、朝廷の御大事が出来たとあらば、先達だけは熊野参詣するとして、他は京に駆けつけるよりほかに処置はあるまい。ただし、兵員も準備していないのどうしようもあるまい」
と言ったところ、筑後守家貞が、 「少しばかりは用意してあります」 と言って、長櫃五十合、日頃はこれに何を入れていると人には教えないで、参詣の列から少し下がって担がせていたのを取り寄せて、蓋を少し開けたのを見たところ、さまざまの色の鎧と太刀と矢を入れたのを取り出した。竹の朸おうご
五十、節を突いて、弓五十張を入れて持たせていた。 「家貞は誠に武勇の達人、思慮深い武士よ」 と重盛は感心なさった。紀伊の国でも、平氏につらなる家人たちはいたが、この京の大事を聞き付けて駆けつけた者もいるにはいたが、武具を装った武者は百騎ほどでしかなかった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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