少納言入道の埋うづ
められける事は十一日なり。同じ十四日、光保みつやす
が郎等男らうどうおとこ を、木幡こはた
なる所に用よう ありて罷まか
りける程ほど に、木幡山峠とうげ
にて、飼か うたる馬むま
に良よ き鞍くら
置お きて、舎人とねり
と思おぼ しきが引きて出い
で来たる。泣き腫は れたる顔を見て、怪あや
しく思ひて、 「誰たれ が馬ぞ」
と問へば、しばらくは答へざりけるを、取りて引き据す
ゑて、 「しや頸くび を切らん」
と責せ めければ、下臈げらふ
の悲しさは、 「少納言入道せうなごんにふだうの馬にて候ふを、京へ引きて上のぼ
り候ふ」 と言ふ。この男を前に立てて、田原たはら
が奥に行きて見れば、土つち を新しくはね上げたる所あり。即すなは
ち掘りて見れば、自害じがい して埋うづ
められたる死骸しがい あり。その首くび
を切りて、奉りけるなり。 |
少納言入道が埋められたのは十一日のことである。同十四日、光保の郎等が木幡に用があって出向いたところ、小幡峠で、大事に飼っているとおぼしき馬に立派な鞍を置いて、舎人風情の男が引いて出て来た。泣きはらした顔を見て不審に思い、
「だれの馬だ」 と尋ねたところ、しばらくは答えようともしなかったのを、取り押さえて座らせ、 「首を切るぞ」 と責めたてたところ、下臈の悲しさ、 「少納言入道の馬ですが、京に引いて上ろうとしているところです」
と言った。この男を先導役として田原の奥に行ってみると、土を新しく掘り上げたところがある。早速掘り起こしてのぞいたところ、自害して埋められたとおぼしき死骸があった。その首を切って、持参した。
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同十七日、源判官げんはんぐわん
李経すゑつね 以下いげ
の検非違使けびいし 、大炊御門河原おおひのみかどがはらにて、信西しんぜい
が首を請う け取り、大路おほぢ
を渡し、東ひがし の獄門ごくもん
の前まげ なる樗あふち
の木にぞ梟か けてける。京中の上下、市をなしてこれを見る。 その中なか
に、濃こ き墨染すみぞめ
めの衣ころも 着き
て、隠遁いんとん 年とし
久ひさ しげなる僧あり。この首を見て、涙を流して申しけるは、
「この人、かかる目に遭あ ひ、その科とが
、何なに ごとぞや。天下てんか
の明鏡めいきやう 今いま
既すで に割わ
れぬ。誰たれ の人か古いにし
へを鏡かが み、今を鏡かが
みん。孔子こうし 老子らうし
の典籍てんじやく を読とく
せん時は、不退ふたい の儒林じゆりん
も口くち を閉と
ぢ、顕教けんけう 密教みつけう
の深秘しんぴ を講かう
ぜん時は、出世しゆつせ の釈氏しやくし
も頭かしら を傾かたぶ
けしぞかし。この人久ひさ しく存ぞん
ぜしかば、国家こつか もいよいよ泰平たいへい
ならまし。諂諛てんゆ の臣に亡ほろ
ぼされて、忠賢ちゆげん の名をのみ残さんことの無慙むざん
さよ。朝敵てうてきん にあらざる人の首を渡して梟か
けたる先例せんれい やある。罪科ざいくわ
何事なにごと ぞや。前世ぜんせ
の宿業しゆくごふ 、当時たうじ
の現報げんぽう 、実まこと
計はか りがたき事かな」 と、世にも恐おそ
れず、人にも憚はばか らず、打ち口説くど
きて泣きければ、これを聞く輩ともがら
、袖そで を絞しぼ
らぬはなかりけり。 |
同十七日、源判官李経以下の検非違使が大炊御門河原で信西の首を受け取り、大路を通って、東獄門の前の樗の木にさらした。京中の者皆大勢集まってこれを見物した。 その群衆の中に、濃い墨染めの衣を着て、久しく隠遁生活を重ねてきたとおぼしき僧がいた。この首を見て、涙を流して言うには、
「この人がこのような目に遭うとは、その罪科は何であろうか。天下の明鏡はもはや割れてしまった。もはや、誰も古を鏡で見ることも、今を鏡に写して見ることも出来ない。孔子老子の典籍を読誦する時は、不退転の儒者も口を閉じ、顕教密教の深秘を講ずるや出世の仏徒も頭を傾けたと伝えられる。この人が末長く生きておいでになったならば、国家もますます安泰であっただろうのに、追従する臣のために亡ぼされ、忠賢の名誉だけ残すことの無念さよ。朝敵でもない人の首渡しをして、それをさらすなどの先例はあるだろうか。罪科はいったい何だというのだ。前世の宿業、ただ今の現報、ほんとうにむずかしいものよ」
と、世間も恐れず、人にも遠慮することなく、泣き泣き訴えたので、これを聞いた人もまた皆泣いた。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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