十日朝
、右衛門尉うゑもんのじよう 成影なりかげ
といふ侍さぶらひ を招きて、
「京の方かた に何事なにごと
かある。きと見て参まゐ れ」
と申しければ、鹿毛かげ 馬むま
に打ち乗り、馳は せ行ゆ
く程ほど に、木幡峠こはたとうげ
にて、禅門ぜんもん の召め
し使つか ひける舎人とね
男おとこ 、もっての外ほか
周章あわ てて出い
で来き たれり。「いかに、やうれ、何事なにごと
かある」 と問へば、舎人男、涙なみだ
を流して、 「何事とはいかに。京きやう
中ぢゆう は暗闇くらやみ
になりて候ふを。衛門督殿ゑもんのかみどの
、左馬頭殿さまのかみどの 、大勢おほぜい
にて、三条殿さんでうどの に夜討ようち
を入れ、やがて火を懸か けられて候ふほどに、院いん
・内ない も煙けぶり
の内うち を出い
でさせたまはずとも申す。また、大内おほうち
へ御幸ごかう なりぬとも聞え候ふ。同じ夜の寅とら
の時、姉小路殿あねこうじどの
も焼き払われ候ひぬ。この夜討も、入道殿にふだふどの
を討う ち奉たてまつ
らんためとこそ、京中の人は申し候へ。この様さま
を告げ申さんとて参まゐ り候ふなり。入道殿は何方いづかた
にわたらせたまひ候ふぞ」 と申しければ、成景、思ふやう、 「下臈げらふ
はうたてしきものぞ。人のいたく問と
はん時は、一旦いつたん の苦しみを逃のが
れんとて、後日ごにち の大事をばかへりみず。知らせては悪あ
しかりなん」 と思ひて、 「いしう参りたり。入道殿は、春日山かすがやま
の後うし ろ、しかじかの所にましますぞ。いかばかり御感ぎよかん
あらんずらん。急いそ ぎ参まゐ
れ」 と教おし へ遣つか
はして、後影うしろかげ も見えずなりければ、大道寺だいだうじ
に馳は せ帰りて、この様やう
を申せば、 「身の亡ほろ びんことをば思はず、ただ、主上しゆしやう
・上皇しやうくわう の御事こそ御いたはられけれ。信西しんぜい
が替か はり進まゐ
らせずしては、誰人てれひと か君きみ
を助たす け進まゐ
らせん。急ぎ我われ を埋うづ
めよ」 とて、穴あな を掘ほ
り、囲めぐ りに板を立ててこそ埋む
められけれ。「死ぬる前さき に敵てき
尋たづ ね来き
たらば、自害じがい をせんずるに、刀かたな
を進まゐ らせよ」 と申せば、成景なりかげ
、泣く泣く腰刀こしがたな を抜ぬ
きて奉たてま る。四人の侍さぶらひ
ども、各々髻もとどり 切りてぞ埋うづ
みける。 「最後さいご の御恩おん
に、法名ほふみやう 賜たま
はらん」 と面々めんめん に申しければ、
「やすき事なり」 とて、右門尉うゑもんのじよう
成景なりかげ を西景さいけい
、右衛門尉うゑもんのじょう 師実もろざね
は西実さいじつ 、修理進しゆりのしん
師親もろちか は西親さいしん
、前武者所さきのむしやどころ
師清もろきよ は西清さいせい
、各々西の字に俗名の冠名くわんみやう
を寄よ せて、次第しだい
にかうこそ付けられけれ。京にありける右衛門尉うゑもんのじよう
師光もろみつ も、この由よし
を聞きて、出家しゆつけ して、西光さいくわう
とぞ呼ばれける。 |