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平 治 物 語 (上)

2012/08/14 (火) 信西出家の由来 付けたり 除目の事

そもそも少納言せうなごん 入道にふだう 信西しんぜい は、南家博士なんけのはかせ なりけるが、高階たかしなの 経敏つねとし が子なりて、高家かうけ に入りたりしかども、儒官じゆくわんつら ならず、そのいへ にもあらざれば、弁官べんくわん にもならず、日向前司ひうがのぜんじ 通憲みちのり とて、鳥羽院とばのいん にぞ されける。ある時、通憲、 「御所ごしよ にては、少納言せうなごん を御めん 候へかし」 とそう したりければ、上皇しやうかう 、 「このくわん摂?せつろく の臣もなりなどしてくだ されざる官なり。いかがあるべからん」 とおぼわづら はせたまひけるを、あなが ちに申しければ、御ゆる しありしほど に、やがて出家しゆつけ して、少納言せうなごん 入道にふだう とぞ呼ばれける。昔はこうこそ官をば しまれしか。されども、今は三司の職を兼帯けんたい し、夕朗せきらう貫首くわんじゆ 、その子供は七弁しちべん の中に加はり、上達部かんだちめ に至り、中少弁ちゆうせうべん をぞけが しける。昨日の楽しみ、今日の悲しび、思へば夢なり、まぼろし なり。諸行無常しよぎやうむじやう道理ことわり の前にあらは れたり。吉凶きつきよう はあざなはれるなは のごとしと、今こそ思ひ知られたれ。
そもそも、少納言入道信西は、南家博士であったが、高階経敏の養子となって高家に属することになったが、儒官になることもなく、またそれだけの家格でもなかったので弁官にも任官することなく、日向前司通憲として、鳥羽院に仕えていた。ある時、通憲が 「御所では、少納言を名乗ることをお許しください」 と願い出たところ、上皇は、 「この官は摂?せつろく の臣も任官するなど由緒あるもの、どうしたものか」 と思案なさっていたが、信西があまりにも強く願い出るので、御許しになった。その後、信西は出家して、少納言入道と呼ばれた。昔はこのように任官については慎重であった。しかし、今は、三司の職を兼帯し、夕朗の貫首を経、その子息は七弁の官を汚した。昨日の楽しみは今日の悲しみとなる。思えば夢であり、幻である。諸行無常の道理が、今目の前に現れた。吉凶はあざなえる縄のごとしと言うが、今こそはっきり思い知らされる。
同十四日、出雲守いづものかみ 光保みつやす内裏だいりまい りて、 「少納言入道が行方ゆくへたづね だしてこそ候へ」 と申しければ、 「やがてくび れ」 とおほ せられ、承りてまか り帰りけり。
さるほどに、去んぬる九日の夜の勧賞けじやう 行はれける。いんないたてまつ り、一本御書所にたてまつ るよりほかは、 だしたる事なければ、つはもの どもを勇ませんがはかりごととぞ聞こえし。信濃守しなののかみ みなもと 重成しげなり佐渡式部大夫さどのしきぶたいふ なり。多田蔵人大夫ただのくらんどのたいふみなもとの 頼憲よりのり摂津守せつつのかみ になる。さきの 左馬頭さまのかみ みなもとの 義朝よしとも播磨守はりまのかみ になる。右兵衛佐うひやうゑのすけ 頼朝よりとも左兵衛尉さひやうえゑのじよう藤原ふぢはらの 政家まさいへ鎌田かまだ 兵衛びやうえ左衛門尉さゑもんのじようみなもとの 兼経かねつね左馬佐さまのすけ 泰忠やすただ左馬允さまのじよう為仲ためなか なり。かやうにはなはだしく勧賞けんじやう 行はれければ、大宮左大臣おほみやのさだいじん伊通公これみちこう 申されけるは、 「など井にはつかさ をばなされぬぞ。井こそ多くの人殺したり」 とありしかば、聞く人、笑ひけるとかや。
同十四日、出雲守光保が内裏に参上して、 「少納言入道の行方を尋ね当てました」 と申し出て来たので、 「直ちに首を斬れ」 との御命令、承って帰ってきた。
さて、去る九日の夜の勧賞が執り行われた。上皇と天皇を引っ捕えて、一本御書所に押し籠め申しあげたことよりほかはさしたる成果もなかったので、これは兵どもの勇を鼓舞せんがためのもくろみとのことであった。佐渡式部大夫源重成は信濃守に任ぜられた。多田蔵人大夫源頼憲は摂津守になる。前左馬頭源義朝は播磨守になる。頼朝は兵衛佐、鎌田兵衛、改め藤原政家は左兵衛尉、源兼経は左衛門尉、泰忠は左馬佐、為仲は左馬允などと、それぞれに勧賞が行われた。このように大幅にわたる勧賞が行われたので、大宮左大臣伊通公がおっしゃったこととして、 「どうして井戸には司を与えないのか、井戸こそ多くの人を殺す大働きをしたのに」 と伝えられたので、これを聞く人は笑い合ったということである。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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