そもそも少納言
入道にふだう 信西しんぜい
は、南家博士なんけのはかせ なりけるが、高階たかしなの
経敏つねとし が子なりて、高家かうけ
に入りたりしかども、儒官じゆくわん
に連つら ならず、その家いへ
にもあらざれば、弁官べんくわん
にもならず、日向前司ひうがのぜんじ
通憲みちのり とて、鳥羽院とばのいん
にぞ召め されける。ある時、通憲、
「御所ごしよ にては、少納言せうなごん
を御免めん 候へかし」 と奏そう
したりければ、上皇しやうかう
、 「この官くわん を摂?せつろく
の臣もなりなどして下くだ されざる官なり。いかがあるべからん」
と思おぼ し召め
し煩わづら はせたまひけるを、強あなが
ちに申しければ、御聴ゆる しありし程ほど
に、やがて出家しゆつけ して、少納言せうなごん
入道にふだう とぞ呼ばれける。昔はこうこそ官をば惜を
しまれしか。されども、今は三司の職を兼帯けんたい
し、夕朗せきらう の貫首くわんじゆ
を経へ 、その子供は七弁しちべん
の中に加はり、上達部かんだちめ
に至り、中少弁ちゆうせうべん
をぞ汚けが しける。昨日の楽しみ、今日の悲しび、思へば夢なり、幻まぼろし
なり。諸行無常しよぎやうむじやう
の道理ことわり 、眼め
の前に現あらは れたり。吉凶きつきよう
はあざなはれる縄なは のごとしと、今こそ思ひ知られたれ。 |
そもそも、少納言入道信西は、南家博士であったが、高階経敏の養子となって高家に属することになったが、儒官になることもなく、またそれだけの家格でもなかったので弁官にも任官することなく、日向前司通憲として、鳥羽院に仕えていた。ある時、通憲が
「御所では、少納言を名乗ることをお許しください」 と願い出たところ、上皇は、 「この官は摂?せつろく
の臣も任官するなど由緒あるもの、どうしたものか」 と思案なさっていたが、信西があまりにも強く願い出るので、御許しになった。その後、信西は出家して、少納言入道と呼ばれた。昔はこのように任官については慎重であった。しかし、今は、三司の職を兼帯し、夕朗の貫首を経、その子息は七弁の官を汚した。昨日の楽しみは今日の悲しみとなる。思えば夢であり、幻である。諸行無常の道理が、今目の前に現れた。吉凶はあざなえる縄のごとしと言うが、今こそはっきり思い知らされる。 |
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同十四日、出雲守いづものかみ
光保みつやす 、内裏だいり
に参まい りて、 「少納言入道が行方ゆくへ
を尋たづね ね出い
だしてこそ候へ」 と申しければ、 「やがて首くび
を斬き れ」 と仰おほ
せられ、承りて罷まか り帰りけり。 さるほどに、去んぬる九日の夜の勧賞けじやう
行はれける。院いん ・内ない
を取と り奉たてまつ
り、一本御書所に押お し籠こ
め奉たてまつ るよりほかは、仕し
出い だしたる事なければ、兵つはもの
どもを勇ませんがはかりごととぞ聞こえし。信濃守しなののかみ
源みなもと 重成しげなり
、佐渡式部大夫さどのしきぶたいふ
なり。多田蔵人大夫ただのくらんどのたいふ源みなもとの
頼憲よりのり 、摂津守せつつのかみ
になる。前さきの 左馬頭さまのかみ
源みなもとの 義朝よしとも
、播磨守はりまのかみ になる。右兵衛佐うひやうゑのすけ
頼朝よりとも 。左兵衛尉さひやうえゑのじよう。藤原ふぢはらの
政家まさいへ 。鎌田かまだ
兵衛びやうえ 。左衛門尉さゑもんのじよう
、源みなもとの 兼経かねつね
。左馬佐さまのすけ 泰忠やすただ
。左馬允さまのじよう 。為仲ためなか
等ら なり。かやうにはなはだしく勧賞けんじやう
行はれければ、大宮左大臣おほみやのさだいじん伊通公これみちこう
申されけるは、 「など井には司つかさ
をばなされぬぞ。井こそ多くの人殺したり」 とありしかば、聞く人、笑ひけるとかや。 |
同十四日、出雲守光保が内裏に参上して、
「少納言入道の行方を尋ね当てました」 と申し出て来たので、 「直ちに首を斬れ」 との御命令、承って帰ってきた。 さて、去る九日の夜の勧賞が執り行われた。上皇と天皇を引っ捕えて、一本御書所に押し籠め申しあげたことよりほかはさしたる成果もなかったので、これは兵どもの勇を鼓舞せんがためのもくろみとのことであった。佐渡式部大夫源重成は信濃守に任ぜられた。多田蔵人大夫源頼憲は摂津守になる。前左馬頭源義朝は播磨守になる。頼朝は兵衛佐、鎌田兵衛、改め藤原政家は左兵衛尉、源兼経は左衛門尉、泰忠は左馬佐、為仲は左馬允などと、それぞれに勧賞が行われた。このように大幅にわたる勧賞が行われたので、大宮左大臣伊通公がおっしゃったこととして、
「どうして井戸には司を与えないのか、井戸こそ多くの人を殺す大働きをしたのに」 と伝えられたので、これを聞く人は笑い合ったということである。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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