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平 治 物 語 (上)

2012/08/13 (月) 信 西 の 子 息 闕 官 の 事

少納言せうなごん 入道にふだう 信西しんぜい 子息しそく 五人、闕官けつくわん せらる。嫡子ちやくし 新宰相しんさいしやう 俊憲としのり次男じなん 播磨中将はりまのちゆうじやう成憲しげのり権右中弁ごんうちゆうべん 貞憲さだのり美濃少将みののせうしやう 脩憲ながのり信濃守しなののかみ 是憲これのり なり。上卿しやうけい花山院くわざんのいん 大納言だいなごん 忠雅ただまさ識事しきじ蔵人右少弁くらんどうせうべん成頼なりより とぞきこ えし。
また、京中に聞えけるは、 「衛門督えもんのかみ左馬頭さまのかみ を語らひて、いん御所ごしよ 三条殿さんでうどの夜討よう ちにして、火を けたるあひだ、いんないけぶり の中を でさせたまはず」 とも申す。また、 「大内おほうち御幸ごかう行幸ぎやうがう はなりぬ」 とも聞えけり。

少納言信西入道の子息五人は、闕官となった。子息五人とは、嫡子新宰相俊憲・次男播磨中将成憲・権右中弁貞憲・美濃少将憲・信濃守是憲の身の上のことである。上卿は花山院大納言忠雅、職事は蔵人右少弁成頼とのことであった。
また京中の評判では、 「衛門督が左馬頭を仲間に誘って、院の御所三条殿を夜討ちにして火をかけたので、院も天皇も煙の中を抜け出すことが出来なかった」 とのことであった。また、大内への御幸は既に終わったとも噂された。

さるほどに、大殿おほとの関白くわんぱく 殿、大内へまゐ らせたまふ。大殿とは法性寺殿ほつしやうじどの 、関白とは中殿なかのとの の御事なり。太政大臣だじやうだいじん 師賢もろかた大宮おほみや左大臣さだいじん 伊通これみち 以下いげ公卿くぎやう 殿上人てんじやうびと北面ほくめんともがらいた るまで、我先われさき にとはせまい る。むまくるまちがおとてんひび かし、地を動かす。万人ばんにん あはてたるさま なり。
播磨中将成憲は、清盛きよもり婿むこ なりければ、十日の夜、六波羅ろくはら みたりけるを、大内よりしき りに されければ、ちから およ ばず、六波羅より でにけり。播磨中将、検非違使けびいし の手へ渡され、 「清盛だにあらば、かくはよも ださじ。この人々の熊野くまの 参詣さんけい にこそ成憲が不運ふうん なれ」 とぞ思ひける。
博士判官はかせはんぐわん 坂上さかのうえの 兼成かねしげ 、播磨中将を六条河原ろくでうがはら にて け取りて、大内へまい りたりければ、越後えちごの 中将を以って子細しさいたづ ねありて、即ち成親にあず けらる。新宰相俊憲は、出家するときこ ゆ。美濃少将憲は、宗判官そうはんぐわん 信澄のぶずみたの みて出で来たりけるを、別当べつたう にかくと告げければ、すなは ち信澄あづ かられけり。信濃守是憲、もとどり りて、検非違使教盛のりもりたの みて でたりけるを、これも別当べつたう に申し けて、預かりけり。
さて、大殿と関白殿が大内へ急いで参内なさった。大殿とは法性寺殿、関白殿とは中殿の御事である。太政大臣師賢、大宮の左大臣伊通以下、公卿・殿上人、北面の輩に至るまで、先を争って参内した。馬や牛車の往き来する音は天に響き渡り、地を動かす勢いがあった。人々はみなあわてふためいている様子であった。
播磨中将成憲は清盛の婿だったので、十日の夜、六波羅に逃げ込んだが、大内からしきりに呼び出され、やむなく六波羅を出た。そして、播磨中将は検非違使の許に引き渡されたが、 「清盛さえ都にいたら、こんなにあっさり六波羅を出されることはなかったろう。この人々が熊野参詣に出かけられたのは、成憲にとっては不運だった」 と思ったことである。
博士判官坂上兼成は播磨中将を六条河原で受け取って、大内へ連行した。そこで越後中将が播磨中将にこの間の事情を尋問、その後直ちに播磨中将は成親に預けられた。新宰相俊憲は出家したとのことである。美濃少将脩憲は宗判官信澄を頼って出頭してきたので、別当に報告、そこで信澄が預かることになった。信濃守是憲は髻を切って、検非違使教盛を頼って出頭してきたが、これも別当に願い出て預かることになった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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