〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (上)

2012/08/11 (土) 信 頼 信 西 不 快 の 事 (四)

上皇しやうくわう 、信西におほ せられけるは、 「信頼が大将だいしやう に望みをかけたるはいかに。必ずしも重代ぢゆうだい精華せいくわ の家にあらざれども、時によってなさるることもありけるとぞ伝へ聞く」 とおほ せられければ、信西、心に思ひけるは、 「すは、この世はそん じぬるは」 となげかしく思ひ、申しけるは、 「信頼などが大将だいしやう になり候ひなば、誰人たれひとのぞ み申さで候ふべき。君の御まつりごと司召つかさめし をおいてさき とす。叙位じよゐ除目ぢもく僻事ひがごとく たり候ひぬれば、かみ 天聞てんもんそむ き、しも 人のそし りをうけて、世の乱れとなる。そのれい漢家かんか本朝ほんてう比類ひるい すく なからず。さればにや、阿古丸あこまる大納言だいなごん 宗通むねみち きやう を、白河院しらかはのゐん大将だいしやう になさんとおぼ されしかども、寛治くわんぢ聖主しやうしゆ 、御ゆる しなかりき。 中御門なかのみかど とう 中納言ちゆうなごん 家成いへなり きやう を、旧院きうゐん 、 『大納言になさばや』 とおほ せられしかども、 『諸大夫しよたいふ の大納言になる事は えてひさ しく候ふ。中納言に至り候ふだにもつみ に候ふものを』 と、諸卿しよきやう いさ め申ししかば、おぼとど まりぬ。せめてもの御こころざし にや、年の初めの勅書ちよくしよ上書うはがき に、 『中御門新大納言殿へ』 とあそばされたりけるを、拝見して、 『まこと大臣だいじん大将だいしやう になりたらんよりも、なほ ぎたる面目めんぼく かな。御志のほどく のかたじけなきよ」 とて、老いの涙をもよほ しけるとこそ承り候へ。いにし へは大納言なほ つてしつおぼ し、しん もいるかせにせじとこそいさ め申ししか、いは んや、近衛大将このゑのだいしやう をや。三公さんこう に列すれども、大将を ず、しん のみあり。執柄しつぺいそく英才えいさいともがら も、このしよく をもつて先途せんど とす。信頼などが身をもって、大将をけが さば、いよいよおご りをきは めて、謀逆ぼうぎやくしん となり、天のためにほろぼされ候はんことは、いかでか不便ふびんおぼ さでは候ふべき」 といさ め申しけれども、君は、 「 にも」 と思し召したる御気色きしよく もなし。信西、せめてのことに、大唐だいたう安禄山あんろくざんおご れるむかし を絵に きて、いんまい らせたりけれども、 「 に」 と思し召したる御こともなかりけり。
信頼、信西がかようにわづ かに ひし申し事をつた きて、出仕しゆつし もせず、伏見ふしみの 源中納言ちゆうなごん 師仲もろなか 卿をあひ かた りて、伏見なる所にこも つつ、むま きに身を らはし、力業ちからわざいとな み、武芸ぶげい をぞ稽古けいこ しける。これ、しかしながら、信西をうしな はんがためなり。

上皇が信西に仰せられたのは、 「信頼が大将任官を望んでいるがどうしたものか。重代の精華の家に属してはいないが、時によっては任官の例もあると伝え聞くが」 とおっしゃったので、信西は、先ず心中に思ったのは、 「ああ、この世は滅んでしまうものを」 と嘆かわしく思い、申し上げたには、 「信頼風情が大将になれるのでしたら、誰だって自分もなれると思い込み、皆大将任官の望みを言いたてることでしょう。君の御為政にあって、任官の公平がもっとも肝要というものです。叙位や除目に誤りが出来てしまうと、上は天子の御意思に背き、下は人民の讒をうけて世の乱れとなります。そのような例は漢家、本朝にたくさんあります。だから、阿古丸の大納言宗通卿を白河院が大将にしてやろうとお考えになったにもかかわらず、寛治の聖主はお許しにならなかった。また、故中門藤中納言家成卿を、旧院が 『大納言にしてやりたい』 とおっしゃったが、 『諸大夫が大納言になることはずっとなかったこと、中納言にまでなったのさえ罪というものです」 と諸卿が諫めたので、旧院も思い留まりました。
せめての思いやりなのでしょうか、年の始めの勅書の添え書きに、 『中御門新大納言殿へ」 と、お書きになってあるのを拝見して、 『実の大臣・大将に任官したことより、なおありがたい名誉です。御志のありがたきことよ」 と家成卿が老いの涙を流したことを聞いております。昔は、大納言任官のごときまで天皇が後押しを思い立たれても、臣下の者が、任官をゆるがせにしてはならないと諫め申したものですのに、まして、この度は近衛大将とは。三公に列しても大将に任官せず、臣のみという場合もあります。執柄の息、英才の輩もこの任官を以って第一とします。信頼ごとき身が大将に任官するようなことがあれば、これからますます奢り極めて、謀逆の臣となり、果てには天の為に滅ぼされることは必定、どうしてこの事の方がかわいそうなこととお思いつかれぬのでしょう」 と諫め申したが、君は、なるほど理のある諌言とお思いになっているふうでもない。信西は、せめての諌言として、太后、安禄山が奢りにふけっている昔のさまを絵に描いて、院の許へ進上させたが、得心がゆかれたふうでもなかった。
信頼は、信西が少しばかり院を諫め申したことを伝え聞いて、その後出仕もせず、伏見の源中納言師仲卿を仲間にして、伏見に籠もって、乗馬の馳せ引きの訓練に励み、また力業など武芸の稽古をしていた。これはすべて信西を殺さんがためである。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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