そのころ、少納言
入道にふだう 信西しんぜい
といふ人あり。山井やまのい 三位さんみ
永頼ながより 卿きやう
六代の後胤こういん 、越後守えちごのかみ
李綱すえつな の孫まご
、進士しんじ 蔵人くらんど
実兼さねかね が子なり。 儒胤じゆいん
をうけて、儒業じゆげふ を伝つた
へずといへども、諸道しよだう
を兼か ね学がく
して、諸事しよじ に闇くら
からず。九流きうりう を渡わた
りて、百家はくか に至いた
る。当世無双たうせいぶさう 、広才博覧くわうさいはくらん
なり。後ご 白河院しらかはのゐん
の御乳母めのと 、紀きの
二位にゐ の夫おつと
たるによって、保元元年ほうげんぐわんねん
よりこのかた、天下てんか の大小事を心のままに執行しゆぎやう
して、絶た えたる跡あと
を継つ ぎ、廃すた
れたる道みち を興おこ
し、延久えんきう の例れい
に任まか せて、記録所きろくじよ
を置き、訴訟そしよう を評定ひやうぢやう
し、理非りひ を勘決かんけつ
す。聖断しやうだん 私わたくし
なかりしかば、人の恨うら みも残のこ
らず。世よ を淳素しゆんそ
に返し、君きみ を尭舜げうしゆん
に至し奉たてまつ る。延喜えんぎ
・天暦てんりやく 二朝てう
にも恥は ぢず、義懐ぎくわい
・惟成ゐせい が三年ねん
にも超こ えたり。大内おほうち
は久ひさ しく修造しうざう
せられざりしかば、殿舎でんしや
傾危けいき して、楼閣ろうかく
荒廃くわうはい せり。牛馬ぎうば
の牧まき 、雉きじ
兎うさぎ の臥ふ
し所ど となりたりしを、一両年の中うち
に造出ざうしゆつ して、御遷幸せんかう
あり。外?重畳げくわくちようでふ
たる大極殿だいごくでん 、豊楽院ぶらくいん
、諸司しよし 、八省、大学寮、朝所あいだんどころ
に至るまで、花の攘はゆき 、雲のたたりかた、大廈たいか
の構かま へ、成風せいふう
の巧こう 、年の経へ
ずして作つく りなせり。不日と云い
ふべかりしかども、民たみ の費つひ
えもなく、国くに の患わづら
ひもなかりけり。内宴ないえん
、相撲すまふ の節せち
、久しく絶た えたる跡あと
を興おこ し、詩歌管絃しいかくわんげん
の遊あそ び、折おり
にふれて相催あいもよほ す。九重ここのへ
の儀式、昔を恥ぢず、万事ばんじ
の礼法れいはふ 、旧ふる
きがごとし。 |
その頃、少納言入道信西という人がいた。 山位三位永頼卿から六代の子孫、越後守李綱の孫、進士蔵人実兼の子である。儒胤を承けて儒業を伝えるという身ではなかったが、諸道を広く学んで、諸事に通じていた。その学識たるや九流から百家にまで及ぼうというもの、現今またなき人と言うべく、広才博覧を以ってなりびびいていた。後白河院の御乳母、紀二位の夫であるとの縁で、保元元年以来、天下のことをあれこれ思うがままに執り行い、途絶えてしまった善政のあれこれの再興を図り、延久の例にc則のつと
って、記録所を置き、訴訟を評定して、その理否を裁決した。判断に私情をさしはさむことはなく、ために、人恨みが尾を引くこともない。虚飾にみちた政治を排し、天皇をして尭舜の再来とまで仕立て上げた。あの延喜・天暦の二朝に肩を並べ、義懐・惟成の為政三年をも超えるほどであった。 大内は長らく修造の手が加えられることもなかったので、殿舎は大きく傾き、楼閣はすっかり荒廃してしまっていた。あたかも牛馬の牧、雉や兎の寝屋もかくばかりと思われるほどであったのを、僅か一、二年のうちに内裏を造出して、御遷幸となる。外?が重畳とした大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、朝所に至るまで、花の攘はゆき、雲のたたりかた、大廈の構え、これら普請の巧を僅かの年月で完成させた。突貫工事とはいうものの、民の負担はなく、国の負担もさほどではなかった。内宴や相撲の節が行われなくなって久しいのを再興し、詩歌・管絃の御遊も折々に催されるようになった。宮中の儀式も昔に変ることなく行われ、あらゆる礼法もまた古に復活した。 |
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その保元三年戊寅ぼいん
八月十一日、主上しゆしやう 御位くらゐ
を退しりぞ かせたまひて、御子の宮に譲ゆず
り申させたまひけり。尊宮そんぐう
と申すは二条院にでうのゐん の御ことなり。しかれども、信西が権勢もいよいよ重かさ
ねて、飛ぶ鳥も落ち、草木くさき
も靡なび くばかりなり。信頼卿の寵愛ちようあい
もいやいづれにて、肩かた を並
ぶる人もなし。ここに、いかなる天魔てんま
の二人の心に入い り替かは
りけん、その中不快ふくわい 。信西は信頼を見て、
「なにさまにも、これは、天下てんか
を危あや ぶめ、世上せじやう
を乱みだ さんずる人よ」 と見てければ、
「いかにしても失うしな はばや」
と思へども、当時たうじ 無双ぶさう
の寵臣ちようしん なる上、人の心知し
りがたければ、打う ち解と
け申し合はする輩ともがら もなし。次ついでもあらばとためらひけり。信頼も、また、何事も心のままなるに、この入道にふだう
をいぶせきことに思ひて、 「便宜びんぎ
あらば失うしな はん」 とぞ案あん
じたる。 |
その保元三年戌寅八月十一日、主上は退位、位を御子の宮にお譲りになった。尊宮と申し上げ、二条院のことである。しかし、信西の権勢もますます勢いさかんとなり、飛ぶ鳥も落ち草木も靡なび
くとのたとえそのままである。信頼の寵愛もますます深まるばかりで、肩を並べる人もないありさまであった。ここにどのような天魔が二人の心に入れ替わったのであろうか、そのうち反目しあうようになり、信西は信頼を見抜いて、いかにもかれは天下をあやうくし、世を乱そうとする人と思ったので、何とかして信頼を亡き者にしようと決心したが、何せ信頼は現今無双の寵臣である上、人の心は計りがたく、心打ち明けて相談し合う輩もいない。そのうち折を見てとためらっていた。一方、信頼もすべて意のままの振る舞いが出来るはずのところ、この信西入道の存在だけが邪魔と、これまた機会あらば殺してやるものをとつけねらっていた。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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