〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (上)

2012/08/11 (土) 信 頼 信 西 不 快 の 事 (三)

そのころ、少納言せうなごん 入道にふだう 信西しんぜい といふ人あり。山井やまのい 三位さんみ 永頼ながより きやう 六代の後胤こういん越後守えちごのかみ 李綱すえつなまご進士しんじ 蔵人くらんど 実兼さねかね が子なり。
儒胤じゆいん をうけて、儒業じゆげふつた へずといへども、諸道しよだうがく して、諸事しよじくら からず。九流きうりうわた りて、百家はくかいた る。当世無双たうせいぶさう広才博覧くわうさいはくらん なり。 白河院しらかはのゐん の御乳母めのときの 二位にゐおつと たるによって、保元元年ほうげんぐわんねん よりこのかた、天下てんか の大小事を心のままに執行しゆぎやう して、 えたるあと ぎ、すた れたるみちおこ し、延久えんきうれいまか せて、記録所きろくじよ を置き、訴訟そしよう評定ひやうぢやう し、理非りひ勘決かんけつ す。聖断しやうだん わたくし なかりしかば、人のうら みものこ らず。淳素しゆんそ に返し、きみ尭舜げうしゆん に至したてまつ る。延喜えんぎ天暦てんりやくてう にも ぢず、義懐ぎくわい惟成ゐせい が三ねん にも えたり。大内おほうちひさ しく修造しうざう せられざりしかば、殿舎でんしや 傾危けいき して、楼閣ろうかく 荒廃くわうはい せり。牛馬ぎうばまききじ うさぎ となりたりしを、一両年のうち造出ざうしゆつ して、御遷幸せんかう あり。外?重畳げくわくちようでふ たる大極殿だいごくでん豊楽院ぶらくいん諸司しよし 、八省、大学寮、朝所あいだんどころ に至るまで、花のはゆき 、雲のたたりかた、大廈たいかかま へ、成風せいふうこう 、年の ずしてつく りなせり。不日と ふべかりしかども、たみつひ えもなく、くにわづら ひもなかりけり。内宴ないえん相撲すまふせち 、久しく えたるあとおこ し、詩歌管絃しいかくわんげんあそ び、おり にふれて相催あいもよほ す。九重ここのへ の儀式、昔を恥ぢず、万事ばんじ礼法れいはふふる きがごとし。

その頃、少納言入道信西という人がいた。
山位三位永頼卿から六代の子孫、越後守李綱の孫、進士蔵人実兼の子である。儒胤を承けて儒業を伝えるという身ではなかったが、諸道を広く学んで、諸事に通じていた。その学識たるや九流から百家にまで及ぼうというもの、現今またなき人と言うべく、広才博覧を以ってなりびびいていた。後白河院の御乳母、紀二位の夫であるとの縁で、保元元年以来、天下のことをあれこれ思うがままに執り行い、途絶えてしまった善政のあれこれの再興を図り、延久の例にcのつと って、記録所を置き、訴訟を評定して、その理否を裁決した。判断に私情をさしはさむことはなく、ために、人恨みが尾を引くこともない。虚飾にみちた政治を排し、天皇をして尭舜の再来とまで仕立て上げた。あの延喜・天暦の二朝に肩を並べ、義懐・惟成の為政三年をも超えるほどであった。
大内は長らく修造の手が加えられることもなかったので、殿舎は大きく傾き、楼閣はすっかり荒廃してしまっていた。あたかも牛馬の牧、雉や兎の寝屋もかくばかりと思われるほどであったのを、僅か一、二年のうちに内裏を造出して、御遷幸となる。外?が重畳とした大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、朝所に至るまで、花のはゆき、雲のたたりかた、大廈の構え、これら普請の巧を僅かの年月で完成させた。突貫工事とはいうものの、民の負担はなく、国の負担もさほどではなかった。内宴や相撲の節が行われなくなって久しいのを再興し、詩歌・管絃の御遊も折々に催されるようになった。宮中の儀式も昔に変ることなく行われ、あらゆる礼法もまた古に復活した。

その保元三年戊寅ぼいん 八月十一日、主上しゆしやうくらゐ退しりぞ かせたまひて、御子の宮にゆず り申させたまひけり。尊宮そんぐう と申すは二条院にでうのゐん の御ことなり。しかれども、信西が権勢もいよいよかさ ねて、飛ぶ鳥も落ち、草木くさきなび くばかりなり。信頼卿の寵愛ちようあい もいやいづれにて、かた ぶる人もなし。ここに、いかなる天魔てんま の二人の心にかは りけん、その中不快ふくわい 。信西は信頼を見て、 「なにさまにも、これは、天下てんかあや ぶめ、世上せじやうみだ さんずる人よ」 と見てければ、 「いかにしてもうしな はばや」 と思へども、当時たうじ 無双ぶさう寵臣ちようしん なる上、人の心 りがたければ、 け申し合はするともがら もなし。ついでもあらばとためらひけり。信頼も、また、何事も心のままなるに、この入道にふだう をいぶせきことに思ひて、 「便宜びんぎ あらばうしな はん」 とぞあん じたる。

その保元三年戌寅八月十一日、主上は退位、位を御子の宮にお譲りになった。尊宮と申し上げ、二条院のことである。しかし、信西の権勢もますます勢いさかんとなり、飛ぶ鳥も落ち草木もなび くとのたとえそのままである。信頼の寵愛もますます深まるばかりで、肩を並べる人もないありさまであった。ここにどのような天魔が二人の心に入れ替わったのであろうか、そのうち反目しあうようになり、信西は信頼を見抜いて、いかにもかれは天下をあやうくし、世を乱そうとする人と思ったので、何とかして信頼を亡き者にしようと決心したが、何せ信頼は現今無双の寵臣である上、人の心は計りがたく、心打ち明けて相談し合う輩もいない。そのうち折を見てとためらっていた。一方、信頼もすべて意のままの振る舞いが出来るはずのところ、この信西入道の存在だけが邪魔と、これまた機会あらば殺してやるものをとつけねらっていた。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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