〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/22 (土) 頼朝遠流の事 付けたり 守康夢合せの事 (二)

同じく三月十五日に、官人くわんにん どもあひ して、都を でられけるが、粟田口あはたぐちこまとど めて、都の名残なごり しまれけり。越鳥ゑつてう 南枝なんし をくひ、胡馬こば 北風ほくふういば ふ。畜類ちくるい なほ 故郷の名残を惜しむ。いかにいはん や、人間においてをや。人は皆、流さるるを泣けども、兵衛佐殿は喜びなり。 「頼朝流さるる、いざや見ん」 とて、山法師やまぼふし寺法師てらぼふし大津おほつ の浦にいち をなしてぞ立ちたりける。頼朝を見て、 「眼威まなこゐ事柄ことがら 、人にははる かに越えたりける。これを伊豆国に流し置かば、千里の野にとら の子を放つにこそあれ。おそ ろしおそ ろし」 とぞ申しける。

同三月十五日、頼朝は、官人どもに囲まれて、都を出発した。粟田口で、早速、馬を止めて、都の名残を惜しんだ。越鳥は南枝に巣を作り、胡馬は北風にいななくという。鳥や獣でさえもやはり故郷の名残を惜しむ。まして人間にとって望郷の念は切実である。人は皆流罪を悲しむが、兵衛佐にとっては喜びであった。 「頼朝が流罪になったぞ。さあ見に行こう」 などと言いあって、比叡山の法師や、三井寺の法師が、大津の浦に、まるで市が立ったように大勢集まってきた。頼朝を見て、 「その眼力といい人品といい、さすがだれでもかなう者はなさそうだ。伊豆国に流罪にするなど、まるで広大な原野に虎の子を放すようなものだ。恐ろしいことよ。恐ろしいこと」 と人々は口々に言ったものだ。

弥平兵衛やへいびやうゑ 宗清むねきよ名残なごり しみ奉りて、 ち送り申す程に、兵衛佐殿、瀬田せた の橋を過ぎたまふとて、 「あれに見ゆる森は、いかなる所ぞ」 とのたま へば、 「建部たけべ の宮とて、八幡はちまんいはまゐ らせて候ふ」 と申せば、 「さらば、今夜、通夜つや して、いとま 申し、下らばや」 と宣へば、宗清、申しけるは、 「 『頼朝こそ流されけるが、宿しゆく には かずして、山林さんりんとま りけるよ』 と、平家にきこ されては、いかが候はんずらん」 と申せども、 「うじ の御神にいとま 申さん。何かくる しかるべき」 と宣ひければ、建部の宮へ れ奉る。 「南無なむ 八幡はちまん 大菩薩だいぼさついま 一度、都へ返し れさせたまへ」 といの られけるこそ恐ろしき。
弥平兵衛宗清も頼朝との別れの名残惜しさに、付き添ってお送りした。兵衛佐殿は、瀬田の橋を渡り終えて、宗清に、 「あそこに見える森は何だろう」 と尋ねたので、 「建部の宮といって、八幡を祀っているのです」 と答えた。すると、頼朝は、 「それでは、今夜、夜通しお祈りして、別れを申しあげ、それから伊豆国に向かおう」 と言い出し、宗清が、 「頼朝は流罪の身でありながら、宿には着かないで、山林に泊ったぞなどと、平家の耳に入ったら、どのようなものでしょう」 とあわてて止めにかかる。しかし、頼朝が、 「源氏の氏神に御暇を申しあげるだけ、問題はなかろう」 と言い張るので、一行は建部の宮に入った、頼朝は、 「南無八幡大菩薩、今一度、頼朝を都へお迎えください」 と祈ったそうだが、恐ろしいことである。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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