同じく三月十五日に、官人
ども相あひ 具ぐ
して、都を出い でられけるが、粟田口あはたぐち
に駒こま を止とど
めて、都の名残なごり を惜を
しまれけり。越鳥ゑつてう 南枝なんし
に巣す をくひ、胡馬こば
北風ほくふう に嘶いば
ふ。畜類ちくるい 猶なほ
故郷の名残を惜しむ。いかに況いはん
や、人間においてをや。人は皆、流さるるを泣けども、兵衛佐殿は喜びなり。 「頼朝流さるる、いざや見ん」 とて、山法師やまぼふし
・寺法師てらぼふし 、大津おほつ
の浦に市いち をなしてぞ立ちたりける。頼朝を見て、
「眼威まなこゐ ・事柄ことがら
、人には遥はる かに越えたりける。これを伊豆国に流し置かば、千里の野に虎とら
の子を放つにこそあれ。恐おそ
ろし恐おそ ろし」 とぞ申しける。
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同三月十五日、頼朝は、官人どもに囲まれて、都を出発した。粟田口で、早速、馬を止めて、都の名残を惜しんだ。越鳥は南枝に巣を作り、胡馬は北風にいななくという。鳥や獣でさえもやはり故郷の名残を惜しむ。まして人間にとって望郷の念は切実である。人は皆流罪を悲しむが、兵衛佐にとっては喜びであった。 「頼朝が流罪になったぞ。さあ見に行こう」
などと言いあって、比叡山の法師や、三井寺の法師が、大津の浦に、まるで市が立ったように大勢集まってきた。頼朝を見て、 「その眼力といい人品といい、さすがだれでもかなう者はなさそうだ。伊豆国に流罪にするなど、まるで広大な原野に虎の子を放すようなものだ。恐ろしいことよ。恐ろしいこと」
と人々は口々に言ったものだ。 |
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弥平兵衛やへいびやうゑ
宗清むねきよ 、名残なごり
を惜を しみ奉りて、打う
ち送り申す程に、兵衛佐殿、瀬田せた
の橋を過ぎたまふとて、 「あれに見ゆる森は、いかなる所ぞ」 と宣のたま
へば、 「建部たけべ の宮とて、八幡はちまん
を斎いは ひ進まゐ
らせて候ふ」 と申せば、 「さらば、今夜、通夜つや
して、暇いとま 申し、下らばや」
と宣へば、宗清、申しけるは、 「 『頼朝こそ流されけるが、宿しゆく
には着つ かずして、山林さんりん
に泊とま りけるよ』 と、平家に聞きこ
し 召め されては、いかが候はんずらん」
と申せども、 「氏うじ の御神に暇いとま
申さん。何か苦くる しかるべき」
と宣ひければ、建部の宮へ入い
れ奉る。 「南無なむ 八幡はちまん
大菩薩だいぼさつ 、今いま
一度、都へ返し入い れさせたまへ」
と祈いの られけるこそ恐ろしき。 |
弥平兵衛宗清も頼朝との別れの名残惜しさに、付き添ってお送りした。兵衛佐殿は、瀬田の橋を渡り終えて、宗清に、
「あそこに見える森は何だろう」 と尋ねたので、 「建部の宮といって、八幡を祀っているのです」 と答えた。すると、頼朝は、 「それでは、今夜、夜通しお祈りして、別れを申しあげ、それから伊豆国に向かおう」
と言い出し、宗清が、 「頼朝は流罪の身でありながら、宿には着かないで、山林に泊ったぞなどと、平家の耳に入ったら、どのようなものでしょう」 とあわてて止めにかかる。しかし、頼朝が、
「源氏の氏神に御暇を申しあげるだけ、問題はなかろう」 と言い張るので、一行は建部の宮に入った、頼朝は、 「南無八幡大菩薩、今一度、頼朝を都へお迎えください」
と祈ったそうだが、恐ろしいことである。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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