ここに、??源五
守康もりやす といふ者あり。義朝よしとも
の郎等ろうどう にてありしが、傍かたは
らに忍しの びて、常つね
に兵衛佐殿のおはしける所へ参り、慰なぐさ
め奉りける程に、老母らうば の尼君あまぎみ
ありしが、病付やまひつ きて、限かぎ
りなりしかども、佐殿すけどの
流なが されたまひしかば、名残なごり
を惜しみ奉り、都にては 「粟田口あはたぐち
まで」 と思ひ、粟田口にては、 「せめて関山せきやま
・大津おほつ まで」 と思ひ、打ち送り申しけるが、その夜は御供とも
して、建部たけべ に通夜したりけるが、夜半やはん
ばかりに、夢想むさう ありしかば、人静しづ
まりて後のち 、頼朝の御側そば
へささやきごとをぞ申しける。 「今度こんど
、伊豆国におはしまし候ふとも、御出家ばし候ふな。不思議ふしぎ
の夢想を蒙かうむ りて候ふ。八幡へ参詣して候へば、御殿ごてん
の内より、 『頼朝が弓矢ゆみや
はいづくにあるぞ』 と御尋ね候ひつれば、 『これに候ふ』 とて、童子どうじ
二人ににん 、弓矢を持も
て参りて候ひつるを、 『深く納をさ
め置く。期ご があらんずるぞ。その時、頼朝に賜た
ぶべし』 と仰せられつれば、御殿に深く納をさ
め置かれ候ひき。また、その後のち
、君、白き御直垂ひたたれ にて
参まゐ らせたまひ、庭上ていしやう
に畏かしこ まって御渡わた
り候ひつれば、白金しろがね の折敷をしき
に打鮑うちあはび を六十七、八本が程置かせたまひ、自みづか
ら御手にて、 『これを、頼朝に賜たま
はれ』 とて、御簾みす の内うち
より押お し出い
ださせたまひ候ひつるを、君の御食まゐら
せたまひ、この鮑をふつふつと参まゐ
り候ひつるが、わづかに一本ばかり残させたまひ、 『これは、守康もりやす
賜はれ』 とて、投な げ出い
でさせたまひ候ひつるを、守康、賜はり、食するとも思おぼ
えず、懐中くわいちゆう するとも思えずして、夢ゆめ
醒さ めぬ。一定いちぢやう
、君の御世みよ に出でさせたまひ候ひぬと思おぼ
え候ふあひだ、かまへてかまへて、御出家などばし候ふな」 よささやき申しければ、佐殿すけどの
、 「人や聞くらん」 と思はれければ、返事もしたまはず、うちうなづきうちうなづきぞせられける。 夜も明けければ、大菩薩だいぼさつ
に暇いとま 申して、出い
でられけり。守康申しけるは、 「今日けふ
ばかり御供申すべく候へども、老母らうぼ
の候ふが、重病ぢゆうびやう を受けて候ふあひだ、おぼつかなく候ふ」
とて、暇いとま 申し、それより都へ帰りけり。
弥平兵衛宗清は、篠原しのはら
まで打ち送り奉り、来こ し方・行ゆ
く末のことども、よきやうに申し置き、それより都へ帰りければ、兵衛佐殿、傾なのめ
ならず喜びたまひ、名残なごり
惜を しげにぞ見えられける。 さる程ほど
に、伊豆国蛭小島ひるがこじま
に置き奉り、伊東いとう ・北条ほうでう
に 「守護しゆご し奉るべし」
と申し置き、官人、都へ上のぼ
りけり。 その後のち 、廿余よ
年を経へ て、頼朝、世に出でたまひけると聞きこ
えし。目出めで たかりしことどもなり。 |