〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/22 (土) 頼朝遠流の事 付けたり 守康夢合せの事 (三)

ここに、??源五こうけちのげんご 守康もりやす といふ者あり。義朝よしとも郎等ろうどう にてありしが、かたは らにしの びて、つね に兵衛佐殿のおはしける所へ参り、なぐさ め奉りける程に、老母らうば尼君あまぎみ ありしが、病付やまひつ きて、かぎ りなりしかども、佐殿すけどの なが されたまひしかば、名残なごり を惜しみ奉り、都にては 「粟田口あはたぐち まで」 と思ひ、粟田口にては、 「せめて関山せきやま大津おほつ まで」 と思ひ、打ち送り申しけるが、その夜は御とも して、建部たけべ に通夜したりけるが、夜半やはん ばかりに、夢想むさう ありしかば、人しづ まりてのち 、頼朝の御そば へささやきごとをぞ申しける。 「今度こんど 、伊豆国におはしまし候ふとも、御出家ばし候ふな。不思議ふしぎ の夢想をかうむ りて候ふ。八幡へ参詣して候へば、御殿ごてん の内より、 『頼朝が弓矢ゆみや はいづくにあるぞ』 と御尋ね候ひつれば、 『これに候ふ』 とて、童子どうじ 二人ににん 、弓矢を て参りて候ひつるを、 『深くをさ め置く。 があらんずるぞ。その時、頼朝に ぶべし』 と仰せられつれば、御殿に深くをさ め置かれ候ひき。また、そののち 、君、白き御直垂ひたたれ にて まゐ らせたまひ、庭上ていしやうかしこ まって御わた り候ひつれば、白金しろがね折敷をしき打鮑うちあはび を六十七、八本が程置かせたまひ、みづか ら御手にて、 『これを、頼朝にたま はれ』 とて、御簾みすうち より ださせたまひ候ひつるを、君の御食まゐら せたまひ、この鮑をふつふつとまゐ り候ひつるが、わづかに一本ばかり残させたまひ、 『これは、守康もりやす 賜はれ』 とて、 でさせたまひ候ひつるを、守康、賜はり、食するともおぼ えず、懐中くわいちゆう するとも思えずして、ゆめ めぬ。一定いちぢやう 、君の御世みよ に出でさせたまひ候ひぬとおぼ え候ふあひだ、かまへてかまへて、御出家などばし候ふな」 よささやき申しければ、佐殿すけどの 、 「人や聞くらん」 と思はれければ、返事もしたまはず、うちうなづきうちうなづきぞせられける。
夜も明けければ、大菩薩だいぼさついとま 申して、 でられけり。守康申しけるは、 「今日けふ ばかり御供申すべく候へども、老母らうぼ の候ふが、重病ぢゆうびやう を受けて候ふあひだ、おぼつかなく候ふ」 とて、いとま 申し、それより都へ帰りけり。

弥平兵衛宗清は、篠原しのはら まで打ち送り奉り、 し方・ く末のことども、よきやうに申し置き、それより都へ帰りければ、兵衛佐殿、なのめ ならず喜びたまひ、名残なごり しげにぞ見えられける。
さるほど に、伊豆国蛭小島ひるがこじま に置き奉り、伊東いとう北条ほうでう に 「守護しゆご し奉るべし」 と申し置き、官人、都へのぼ りけり。
そののち 、廿 年を て、頼朝、世に出でたまひけるときこ えし。目出めで たかりしことどもなり。

??こうけちの 源五守康という者がいた。義朝の郎等であったが、人目につかない所に隠れて、いつも兵衛佐殿のもとに出向き、お慰め申し上げていた。老母の尼君がいて病気になり、もはや命も限りよいう時であったが、佐殿が流罪に処せられることになったので、守康は名残を惜しんで見送りに出ることにした。都の内では、 「せめて粟田口までお見送りして」 と思い、ところが、粟田口に着くと、 「せめて関山・大津まで」 と思い直して、一行に従っていたが、その夜もお供して建部の宮で通夜することになった。夜半に守康に夢想があり、人が寝静まったのを見計らって、守康は頼朝の側近く寄ってささやいた。そのささやきごととは次の通り。
「今度、伊豆国にいらしても決して出家なさらないように。不思議な夢想を受けたのです。八幡に参詣していたところ、御殿の中から、 『頼朝の弓矢はどこにあるか』 とお尋ねがあり、 『ここにございます』 と答えて、二人の童子が弓矢を持ってきたところ、 『大事に納めて置く。これを使う時が必ずある。その時、頼朝に賜るがいい』 との声もろとも、この弓矢は御殿の奥深く納められました。また、その後、頼朝殿が白い御直垂姿でいらして、庭上を畏まってお通りになったところ、白金の折敷にのし鮑を六十七、八がとこ置かれ、神自らの御手で、 『これを頼朝に賜われ』 の声とともに、御簾の中から押し出してこられた。頼朝殿もこれを召し上がり、この鮑をふつふつと食べていらしたが、わずか一本だけお残しになり、 『これは守康にやる』 と言って投げ出しなさったのを守康がいただき、食べたのか、懐中に入れたのかはっきり覚えていないまま、夢が醒めてしまいました。確かに頼朝殿の時代が到来すると確信いたしましたので、どうか、絶対に、御出家などなさらないように」 。
守康はかくささやいたのだが、佐殿は、 「人が聞いているかも知れない」 と用心して、返事はなさらなかったが、うなずきうなずきされた。
夜も明けたので、大菩薩に別れの挨拶をして出発なさった。守康は、 「せめて今日ぐらいお供いたしたいところですが、あいにく、老母がおり、重病なので、気がかりなのです」 と別れを告げて、ここから都へ帰った。

弥平兵衛宗清は、篠原まで送って、これからの旅のご無事を言いおいて、ここから都に帰った。兵衛佐殿もたいそうお喜びで、名残惜しそうに見えたことである。
さて、頼朝を、伊豆国蛭小島に留めて、伊東、北条に、 「守護するように」 と命じて、官人どもは、都に帰って行った。
その後、二十余年がたって、頼朝殿は時めきなさったとのことである。何とも目出たいことである。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ