さる程
に、兵衛佐ひやうゑのすけ 頼朝よりとも
は、伊豆国いづのくに 蛭小島ひるがこじま
へ流さるべしと定さだ めらる。池殿いけどの
、この由よし 聞きたまひ、宗清むねきよ
がもとへ、 「頼朝を具ぐ して参まゐ
れ」 と宣のたま ひければ、弥平兵衛やへいぶやうゑ
宗清むねきよ 、兵衛佐殿を具し奉り、参まゐ
りたり。池殿、頼朝を近く呼び寄せ、姿すがた
をつくづくと見たまひて、 「実げ
に、家盛いへもり が姿に少しも違たが
はず。あはれ、都辺みやこへん
に置お いて、家盛が形見に、常に呼び寄せて慰なぐさ
まばや。遥々伊豆国まで下くだ
さんことこそうたてけれ。わ殿どの
は、家盛と思ひ、春秋の衣装は一年に二度ふたたび
下すべし。尼を母と思ひ、空むな
しくならば、後世ごせ をも弔とぶら
ふべし。また、伊豆国は鹿しし
多き所にて、常に国人くにびと
寄よ り合あ
ひて狩かり する所にてあるなるぞ。人と寄よ
り合ひ、狩などして、 『流なが
され人の思ふやうに振舞ふるま
ふこと』 とて、国人に訴うた
へられ、二度ふたたび 憂う
き目め 見るべからず」 と宣へば、兵衛佐殿、畏かしこ
まって、 「争いか でかさやうの振舞ふるまひ
候ふべき。髻もとどり をも切り、父の後世をも弔ひ申さばやとこそ存じて候へ」
と申されければ、 「よく申すものかな」 とて、池殿、涙を流されける。 「疾と
疾と く疾と
く」 と宣へば、御前ごぜん を出い
でられけり。 |