〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/21 (金) 悪 源 太 雷 と な る 事 (一)

さるほど に、難波なんばの 三郎経房つねふさ は、悪源太あくげんた りてのちつね には、邪気じやけ 心地ごこち ひて来たりける。経房、 「いかにしてか邪気心地をうしな うべし」 といへば、 「摂津国せつつのくに 箕面みのお の滝の水に たれてこそ、邪気心地は すると承り候へ」 と人言ひければ、やがて箕面へまゐ り、滝壺たきつぼ を見て、 「いかほど 深くあるらん」 と言へば、寺僧じそう ども、 「一里ばかり深く候ふとこそ申し伝へて候へ」 と言へば、れい邪気じやけ 心地ごこち こりて、滝壺へ走り入り、行方ゆくへ も知らず、遥々はるばる と入りければ、水もなき所へ行き でたり。うつく しくかざく りたる、御所ごしよおぼ しき所あり。門のくち にたたずみければ、内より、 「あれは そ」 と問ふ。 「平家のさぶらひ 、難波三郎経房と申す者にて候ふ」 「さては、難波なんば といふ者ござんなれ、かへ れ。しやば 婆にて子細しさい があらんずるぞ。その時参れ」 と言ひければ、 「これは何処いづく にて候ふやらん」 と、 「帰りては、何と申すべきぞ」 と言へば、 「これは竜宮りゆうぐうく なり。参りたるしるしには、これを取らせん」 とて、水晶すいしやうたふ仏舎利ぶつしやり一粒いちりふ 入れて ぶ。たま はりて、懐中くわいちゆう して、門を づると思ひければ、もと のごとく、滝壺へうか でけり。寺僧どもにこのよし 言へば、 よだちてぞおぼ えける。
さて、都へのぼ りて、この由を申しければ、清盛きよもり不思議ふしぎ にぞおぼ えける。

さて、難波三郎経房は、悪源太を斬り殺した後、いつも、もののけにとりつかれたような心地だった。経房は、 「どうすればこの邪気心地を払うことが出来るのだろうか」 と困り果てていると、 「摂津国箕面の滝の水に打たれると、邪気心地がなくなると聞いたことがある」 と教えてくれる人がいた。そこで、箕面へ行き、滝壺を見て、 「どれぐらいの深さだろう」 と聞いたところ、寺僧どもは、 「一里ほどの深さがあると言い伝えられています」 と言う。折りしも、あの邪気心地がきざしてきたので、滝壺に走り入り、どこをどう進んだかわからない、ともかくはるか深く入ってみると、突然、水のない所に行き着いた。美しく飾り立て、まるで御所のようなたたずまいである。門口の辺に立っていると、内から、 「誰だ」 と問いかけてきた。 「平家の侍、難波三郎経房という者です」 と答えると、また、 「そうか難波という者なのだな。早く帰れ、人間世界に戻ると事情がわかるだろう。その時来い」 と言うので、難波が、 「ここは一体全体どこなのです。人間世界に帰って、どう説明したらいいのだろう」 などと聞くと、 「ここは竜宮だ。ここにやって来た記念にこれをやろう」 と答えが返って来、水晶の塔に仏舎利を一粒入れてくれた。いただいて、大事に懐に入れて、門を出たと思った瞬間、元のように、滝壺に浮かび出ていた。寺僧どもに、この話を教えてやると、皆身の毛よだって恐ろしがった。
さて、難波三郎経房は都へ帰って、このことを報告したところ、清盛は不思議そうに聞いていた。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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