〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/19 (水) 常 葉 落 ち ら る る 事 (三)

先途せんど ほど 遠き、思ひを大和やまと なる宇陀うだこほり め、後会こうくわい はるご かなる、たもとあかつき古郷こきやう の涙にしを れつつ、<なrt> らはぬたび朝立あさだ ちに、野路のぢ山路やまぢ も見え かず。ころ二月きさらぎ 十日なり。余寒よかん なほ はげ しくて、雪はひま なく降りにけり。今若殿いまわかどのさき て、乙若殿おとわかどの を手を引き、牛若殿うしわかどのふところいだ き、二人ににんおさな い人々には物も かせず、こほり の上を裸足はだし にてぞ歩ませける。 「さむ や、つめ たや、母御前ははごぜん 」 とて、 き悲しめば、ころも をばをさな い人々に せて、あらし ののどかなるかた てて、 が身ははげ しき方に立ち、はぐむにけるぞあはれなる。

これからの行く手は遠く、大和の宇陀の郡に思いを馳せ、生きて再び出会うこともない、この暁、故郷を思う涙で袂はすっかり濡れてしまった。慣れぬ朝立ちの旅、野路、山路も涙で見分けがつかない。ころは二月十日のことである。余寒はまだ厳しく、雪はしきりに降っている。今若殿を先頭に、常葉は乙若殿の手を引いて、牛若殿を懐に抱いて、二人の幼い子供は履物も履かず、氷の上を裸足で歩いていた。 「寒いよ、冷たいよ、母者」 と子供たちが泣き悲しむと、常葉は衣を子供に着せかけて、吹く風が弱いほうに子供を立て、風の強い方に自分が立つなど、精一杯子供を世話しているさまは、気の毒といったらない。

小袖こそで きてあしつつ むとて、常葉、言ひけるは、 「いま少し行きて、棟門むなかど ちたる所あり。これは、かたき 清盛の家なり。声を して泣くならば、 らはれて、うしな はれんず。命 しくは、泣くべからず」 とふく めて、あゆ ませける。棟門立ちたる所を見て、今若殿、 「これざうら ふか、かたき の門は」 と問へば、泣く泣く、 「それなり」 とうなづ く。 「さては、乙若殿も泣くべからず。われ も泣くまじき」 と言いひながら、あゆ みけるに、小袖こそで にてあしつつ みたれども、こほり の上なれば、ほど なく れ、 ぎ行くあと みて、顔は涙にあら ひかね、とかうして、伏見ふしみをばたづ ねて入りにけり。
小袖を解いて脚を包もうとしながら、常葉は、 「もう少し行くと、棟門の立った家があります。それは、敵清盛の家なのです。声を出して泣いたら、捕えられて殺されますよ。命が惜しかったら、泣いてはいけません」 と言い含める。棟門の立っている所を見て、今若が、 「これが敵の門」 と聞くので、常葉は、泣く泣く、 「そうよ」 と頷く。 「さあ、乙若殿も泣いてはいけません、私だって、もう泣きません」 と言いながら歩き始めたが、小袖で脚は包んだものの、氷の上のことで、いつしか切れてしまい、通り過ぎる跡は血に染まり、顔は涙で濡れ、とかくしているうちに、伏見の伯母の家に着いた。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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