〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/19 (水) 常 葉 落 ち ら る る 事 (四)

日頃ひごろ 、源氏の大将軍だいしやうぐん 左馬頭殿さまのかうのとのきたかた とて、一門中いちもんぢゆう上臈じやうらふ にして、もてなしき。まして、おの づから来たりしをば、世になきことのやうに思ひしに、今は謀叛むほん の人の妻子めこ なれば、いかがあらんずらん」 とて、をば は、ありしかども、なきよし をこそいら へける。 「さりとも、来たらぬことはあらじ」 とて、日の れまで、つくづくと待ち たれども、こと ふ者もなかりければ、をさな い人々 して、常葉、泣く泣く でにけり。
寺々てらでらかねこえ今日けふ れぬと られ、人をとが むるさと の犬、声澄む程に はなりぬ。しば りくぶるたみいへけぶり えせざりしも、田面たづらへだ ててはる かなり。むめ の花を折りて挿頭かざしはさ まねども、二月じげつ の雪、ころも に落つ。尾上をがみ の松もなければ、まつ でて宿やど るべき木陰こかげ もなく、人のあと は雪にうづ もれて、 ふべき戸ざしもなかりけり。

「いつもは、源氏の大将軍左馬頭殿の北の方として、一門のなかでも、最も位の高い者として接待した。まして、たまの来訪はこの上なき光栄と喜んでいたのだが、今となっては謀反人の妻子ということになり、どうしたものか」 と伯母は案じて、居留守をつかい、いあに旨答えた。常葉は、 「それでもお帰りにならないことはありますまい」 と日が暮れるまで、じっと待っていたが、誰も声をかけてくれない。常葉は幼い子供たちを連れて、泣く泣くそこを出た。
寺々の鐘の声が日暮れを告げて響き渡り、通りがかる人をとがめだてして里の犬は吠えかかり、その鳴き声が澄み渡るほどの夜になった。柴を折って燃やしている民家の煙が田面を隔てて遠くに見える。梅の花を折って挿頭に挿したわけではなく、それは二月の雪が衣に落ちかかるのであった。尾上の松もないので、松の根に立ち寄って宿ることの出来そうな木陰もなく、人の歩いた跡はすぐ雪に埋もれて、訪ねるべき家もなかった。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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