〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/18 (火) 頼朝遠流に宥めらるる事 付けたり 呉越戦ひの事 (五)

人、この由を聞きて申しけるは、 「昔、大日下おほくさか王子わうず の御子、眉輪まゆわ の王子は、七歳にして、親のかたき伯父をぢ 安康あんかう 天皇を討ちたまひけるなり。厨川くりやがは次郎 貞任さだたう が子息千世ちよ 童子は、十二歳にて、父と一所いつしよ にて討死うちじに しけるとぞ承る。頼朝は、今年十三歳になるぞかし。父と一所にて討死をこそせざらめ。とし 高く、よはひ かたぶ きぬる朽尼くちあま きて、命を ひ、助からんと言ふは、無下むげ に言ふにかひ なき心かな」 と言ひければ、 る人申しけるは、 「こ儀、しか るべからず。越王ゑつわう 勾践こうせん呉王ごわう 夫差ふさ と、会稽山くわいけいざんさ を中にへだ てて合戦かつせん しけるに、越王、いくさ に打ち負けて、かたき 呉王夫差に らはる。土のらう めて、うしな はんとしけるに、呉王夫差、大事のやまひ石淋せきりん といふことになや めり。 『いかにしてか病人の生死しやうじ を知るべき』 と言ひければ、越王、この由を聞き、 『病人の死生ししやう を知るはやす きこと』 と言ふ。 『いかにして知るぞ』 と問へば、 『尿いばり を飲みて知る』 と言うふ。 『尿なんぢ 、飲みてみんや』 と言えへば、 『やす きことなり』 とて、呉王夫差が尿を三度さんど 飲む。 『いかん』 と言へば、 『今度は死すべからず』 と答ふ。やがてやまひ えければ、 『これ、我が為におん ある人なり』 とて助けらる。故郷こきやう へ帰りける時、みち にてかはづをど りければ、馬より りて通る。人、 『いかに』 と問へば、 『いさ める者をしやう ぜんためなり』 と答ふ。 『かかる賢人けんじん あるなり』 とて、当国他国より、大勢おほぜい 来たりて付きければ、つひ に、呉王夫差を殺しぬ。会稽くわいけいはぢすす ぐとは、かようのことをこそ申せ。あるが中に、頼朝、命を生きんと言ふは、成人して後、おやかたき なれば、平家をほろ ぼさんとや思ひなりて、申し候ふらん。をそ ろしをそ ろし」 とぞ申し合ひける。

世間の人々は、この話を聞いて、 「昔、大日下の王子でいらっしゃる眉輪も王子は七歳で、親の敵である伯父安康天皇を討ちなさった。また、厨川次郎貞任の子息千世童子は十二歳で、父と一緒に討死したと聞いている。頼朝は、今年十三歳になるというのに、父と一緒に討死するわけでもない。あまつさえ、年老い、もはや齢の傾いた、今にも倒れそうな尼に頼み込んで、命乞いをして助かりたいなどういうのは、何とも見下げ果てたことよ」 と言う者もいた。また、ある者は、 「その言い分は当っていない。越王勾践と呉王夫差と、会稽山をはさんで合戦をしたことがある。越王は戦に敗れて敵呉王夫差に捕えられた。呉王は越王を土牢に閉じ込めて、殺そうとしたが、折りしも、呉王夫差は石淋という病にかかっていた。呉王が 『病人が治るか死ぬか、どうしたら知ることが出来よう』 と口に出したところ、越王がそのことを聞きつけて、 『病人が治るか死ぬか、それを知るのは簡単なこと』 と言ってのけた。そこで、呉王が、 『どうしてわかるのか』 と問うと、越王は、 『尿を飲んで知る』 と言う。重ねて、呉王が、 『お前、飲んでみるか』 と言うと、すかさず、越王は 『簡単なことよ』 と言い、呉王夫差の尿を三度飲んだ。 『どうだ』 と聞いたところ、 『今度は死なない』 と答える。すぐこの病気が治ったので、呉王は、 『越王は自分にとって恩人である』 と言って、越王の命を助けた。越王が故郷へ帰るとき、道で蛙が跳ねているのを見て、馬から下りて通り抜けたと言う。人が、 『どうしたのですか』 ろ尋ねたところ、 『勇ましい者を称えたまで』 と答えた。 『世にはこのような賢人がいるものだ』 と評判になり、当国、他国からも大勢の人々が越王の軍陣に加わったので、越王はついに呉王夫差を殺すことが出来た。会稽の恥を雪ぐとはこれから出た故事である。こういうこともあるのだから、頼朝がなんとか命生きようというのは、成人した後、親の敵である平家を滅ぼそうなどと思い付いて、言っているのだろうよ。恐ろしいこと、恐ろしいこと」 などとも言い合っていた。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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