重盛、池殿にこの由申されければ、涙を流したまひて、
「あはれ、恋 しき昔かな。忠盛の時ならば、これほど軽かろ
くは思はれ奉るまじ。過去くわこ
に、頼朝に我わ が命を助けられてありけるやらん。聞くよりしていたはしく、不便ふびん
に思ふなり。頼朝斬き られば、我われ
も生きて何なに かせん。干死ひじ
にせん」 とて、湯水ゆみづ をも飲み入れたまはず、伏ふ
し沈しづ みて泣かれければ、重盛、この由よし
聞き、清盛の御前まへ に参まゐ
りて申されけるは、 「池殿いけどの
こそ、 『頼朝斬られば、尼あま
も干死にせん』 と、御歎き候ふなるが、既に限かぎ
りと承うけたまは り候ふ。年老お
い、衰おとろ へさせおはしまし候へば、ただ今も空むな
しくならせたまふこと候はば、清盛は賢臣けんじん
の弓取ゆみと りとこそ聞きつるに、老い衰へたる母の尼上あまうへ
の申す事を適かな へずして、空むな
しくなしぬるは、 『継母けいぼ
・継子けいし の中にてこそ、かようにはあれ』
など、人々申し候はば、御ためには憚はばか
りにて候ふものを。頼朝を斬られ候ふとも、なからん果報くわほう
来き たるべきにでも候はず。助けさせたまひて候ふとも、あらん果報失う
すべきにても候はず。当家たうけ
の運末うんすゑ にならん時は、諸国に源氏多ければ、世を取らんこと、何か疑ひ候ふべき」
と申されければ、清盛、道理ことわり
にや思はれけん、十三日に斬るべかりし頼朝を、流罪るざい
に宥なだ め置お
かれけり。 |