さて、兵衛佐殿のご様子、聞くだに心うたれることです。 「頼朝はまだ幼い。日々の生活のお世話をしてあげよ」
ということで、池尼御前が、丹波藤三国弘という小侍を一人付けてくれた。二月七日、所在なさに、佐殿は国弘を呼んで、 「小刀と檜を探し出してきてくれ」 と頼んだので、国弘は、
「父頭殿を始として、御兄弟の多くがお亡くなりになりました。せめて御経でも読み、御念仏を唱るなどして御菩提を弔うのが当然でしょうに、小刀と檜など、何の手遊びをなさろうというのですか」
と諫めた。その時、頼朝は、 「自分だってよく物を覚えているつもりだ。天下に、頼朝に勝って、よく思慮をめぐらす者がいようとは思われない。去年三月に、母御前に先立たれ、頭殿も討たれなさった。悪源太や大夫進も亡くなった。なかでも、正月三日に、頭殿はお討たれになた。今日は二月七日だから、五七日に当る。頼朝が時めいているのなら、どのような仏事でも営むことが出来ようが、今、このような囚われの身になっているのであれば、どうしようもない。だから卒都婆の一本も刻んでそれに念仏を書いて、御菩提を弔うことで、父の苦しみがほんの少しでも軽くなればと思うからこそ、小刀と檜を探してきてくれと頼んだのだ。手遊びなどではないのだよ、国弘」
と涙ながらに自分の思いを話した。国弘もかわいそうになって、宗清に頼朝の言い分を伝えたところ、宗清も小さい卒都婆を百本お作りになり、それに念仏をお書きになって、
「僧を招いて供養をしよう」 と請け合ってくれた。早速、宗清の知り合いの僧を呼ぶことになった。佐殿は身に着けていらしった小袖を脱いで、僧の前に置き、 「頼朝が今世にときめいているのでしたら、どのような御布施でも用意させていただく所存ですが、何せ、このような捕われの身ですから、何も出来ません。どうか、卒都婆の供養を述べていただきませんか」
と挨拶した。僧は、この挨拶を聞き、たいそう感動して、卒都婆が立派であること、佐殿の父を思い、母を思い、兄弟を思う志の切なることを誉めて、 「成等正覚、頓証菩薩、極楽往生」
と唱えて、鐘を鳴らしたので、佐殿もありがたさで涙とどまることなく、また、宗清以下の者たちも皆涙を流して泣いた。 |