〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/15 (土) 頼朝遠流に宥めらるる事 付けたり 呉越戦ひの事 (一)

さるほど に、兵衛佐殿ひやうゑのすけどの のありさま、うけたまは るぞあはれなる。
頼朝よりとも は、いまおさな からんなり。手水てうづ などをも取れ」 とて、池尼御前いけのあまごぜん より、丹波藤三たんばのとうざう 国弘くにひろ といふ小侍こさぶらひ 一人いちにん 付けられたり。
二月七日の徒然つれづれ に、佐殿すけどの 、国弘を して、 「小刀こがたなたづ ねてまゐ らせよ」 とのたま へば、国弘申しけるは、 「頭殿かうのとの をはじめまゐ らせて、御兄弟きやうだい 数多また せさせたまひ候ひぬ。御経をもあそばし、御念仏をも申させたまひ候ひて、御菩提ぼだい をもとぶらまゐ らせたまひ候はで、何事なにごと の御手すさびの候ふべきぞ」 と申せば、佐殿のたま ひけるは、 「天下てんかもの を思ふ者は、頼朝にまさ りて二人ともあるべきか。去年こぞ 三月さんぐわつ に、母御前におく れ奉り、頭殿 たれたまふ。悪源太あくげんた大夫進だいぶのしん せたまひぬ。中にも、正月三日、頭殿討たれたまひぬ。今日けふ は二月七日なれば、五七日ごしちにち になるぞかし。頼朝 にあるならば、いかなる仏事をもおこな ふべけれども、かかる身なれば、ちから なし。されば、卒都婆そとば の一本をきざ み、念仏ねんぶつ 書きて、御菩提ぼだいとぶら ひ奉り、一劫いちごふ をもかろ くなりたまふかと思ふにこそ、小刀。檜の木を尋ぬれ。手すさびにはあらず、国弘」 とて、涙をなが したまへば、国弘も、あはれに思ひて、宗清むねきよ のこのよし 言へば、ちひ さき卒都婆を百本作りまゐ らせたれば、念仏を書きたまひ、 「僧をしやう じて供養くやう せばや」 とのたま へば、宗清が知りたる僧を入れ奉り、佐殿すけどの たまへる小袖こそで ぎて、僧の前にさし置き、 「頼朝、世にだに候はば、いかなる御布施ふせ をも用意つかまつりたく候へども、かかる身になり候へば、ちから およ ばず候ふ。卒都婆そとば の供養、 び候へ」 と宣へば、僧、あはれにおぼ えて、卒都婆のめでたきやう、佐殿の御こころざし の深くおはしますよし を申しひら き、 「成等正覚じやうどうしようがく頓証菩提とんしようぼだい往生極楽わうじやうごくらく 」 と申し上げて、かね らしければ、佐殿、涙も へたまはず、宗清以下いげともがら も、皆、涙をぞ流しける。

さて、兵衛佐殿のご様子、聞くだに心うたれることです。
「頼朝はまだ幼い。日々の生活のお世話をしてあげよ」 ということで、池尼御前が、丹波藤三国弘という小侍を一人付けてくれた。二月七日、所在なさに、佐殿は国弘を呼んで、 「小刀と檜を探し出してきてくれ」 と頼んだので、国弘は、 「父頭殿を始として、御兄弟の多くがお亡くなりになりました。せめて御経でも読み、御念仏を唱るなどして御菩提を弔うのが当然でしょうに、小刀と檜など、何の手遊びをなさろうというのですか」 と諫めた。その時、頼朝は、 「自分だってよく物を覚えているつもりだ。天下に、頼朝に勝って、よく思慮をめぐらす者がいようとは思われない。去年三月に、母御前に先立たれ、頭殿も討たれなさった。悪源太や大夫進も亡くなった。なかでも、正月三日に、頭殿はお討たれになた。今日は二月七日だから、五七日に当る。頼朝が時めいているのなら、どのような仏事でも営むことが出来ようが、今、このような囚われの身になっているのであれば、どうしようもない。だから卒都婆の一本も刻んでそれに念仏を書いて、御菩提を弔うことで、父の苦しみがほんの少しでも軽くなればと思うからこそ、小刀と檜を探してきてくれと頼んだのだ。手遊びなどではないのだよ、国弘」 と涙ながらに自分の思いを話した。国弘もかわいそうになって、宗清に頼朝の言い分を伝えたところ、宗清も小さい卒都婆を百本お作りになり、それに念仏をお書きになって、 「僧を招いて供養をしよう」 と請け合ってくれた。早速、宗清の知り合いの僧を呼ぶことになった。佐殿は身に着けていらしった小袖を脱いで、僧の前に置き、 「頼朝が今世にときめいているのでしたら、どのような御布施でも用意させていただく所存ですが、何せ、このような捕われの身ですから、何も出来ません。どうか、卒都婆の供養を述べていただきませんか」 と挨拶した。僧は、この挨拶を聞き、たいそう感動して、卒都婆が立派であること、佐殿の父を思い、母を思い、兄弟を思う志の切なることを誉めて、 「成等正覚、頓証菩薩、極楽往生」 と唱えて、鐘を鳴らしたので、佐殿もありがたさで涙とどまることなく、また、宗清以下の者たちも皆涙を流して泣いた。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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