〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/15 (土) 頼朝生捕らるる事 付けたり 夜叉御前の事 (三)

兵衛佐殿のいもうと青墓あをはか夜叉やしや 御前ごぜん 、佐殿の られたまひしかば、湯水ゆみづ をも見入たまはず、なげ かれければ、大炊も延寿えんじゆ も、 「いかやうに歎きたまふぞ、御命ながらへてこそ、頭殿こうのとの 菩提ぼだいとぶら ひ申させたまはんずれ」 なんど申せば、そののち 、少しなぐさ みたまふ景色けしき なれば、大炊も延寿も けて、いた う付き添ひ奉らず。乳母めのと女房にようぼう も、うれ しく思ひてける所に、二月一日、夜に入りて、ただ一人ひとり 、青墓の宿しゆく を出でたまひけるが、はる かにへだ たりたる杭瀬川くいせがは に尋ね行きて、御年十一にて、身を げたまふぞあはれなる。

兵衛佐殿の妹、青墓の夜叉御前は、兄佐殿が捕えられてからというもの、湯水も口にされず、歎いていたので、大炊も延寿も、 「どうしてそんなにお歎きなのですか。お命長らえてこそ、父頭殿の御菩提を弔うことが出来るというものでしょうに」 など慰めると、その後少し気が紛れたような様子だったので、大炊も延寿もすっかり安心して、いつも付き添って監視することはやめにした。乳母の女房も安心していたが、二月一日、夜になってから、夜叉御前は、ただ一人で青墓の宿を抜け出し、遥か遠くの杭瀬川まで出かけて行って、御年十一歳で、身を投げてしまわれたなど、まことに痛ましい。

けければ、乳母めのと の女房、 「姫君ひめぎみ わたらせたまはず」 と言ひてければ、大炊おほひ延寿えんじゆ 、あわてさわ ぎ、尋ね奉れども、見えたまはず、 「さて、いかにせむ」 となげ く所に、旅人たびびと 申しけるは、 「杭瀬川のみぎは にこそ、をさあ い人の死骸しがい を取り上げ、 『いかなる人にておはしますやらん』 とて、人の見ひつれ」 と言へば、 「さては、姫君にてぞおはしますらん」 とて、大炊・延寿・乳母の女房たち、尋ね行き、見れば、夜叉御前にてぞおはしける。むな しき死骸しがい を御輿こし き入れて、宿所へ帰り、 き悲しめども、つひむな しくなりたまひしかば、 の墓に並べて孝養けうやう し、延寿 ひけるは、 「御こころざし 浅からず思はれ奉りし頭殿かうのとの にも おくまゐ らせ、その後、御形見かたみ に見奉らんと思ひつる夜叉御前にも後れ奉る。我が身も生きて何にかはせん」 とて歎きければ、母の大炊、さまざまにこしらへけり。母の心をやぶ らじとて、あま になる。頭殿の御菩提ぼだい を、他事たじ なくとぶら ひ奉る。

夜が明けたところで、乳母の女房が、 「姫君がいらっしゃらない」 と騒ぎ出したので、大炊と延寿も驚いて、あちこち探し回ったが見つからない。 「これから、どうしたものでしょう」 と歎き、途方に暮れていたところ、旅人が、 「杭瀬川の水際で、幼い人の死骸が見つかり、 『これはいったいどなたなのでしょう』 などと言って、人が大勢集まっていたよ」 と教えてくれた。 「さては、姫君でいらっしゃるにちがいありません」 ということで、大炊延寿、乳母の女房が駆けつけて見たところ、たしかに夜叉御前だった。空しい死骸を御輿に乗せて、宿所へ帰って、一同、泣き悲しんだが、もはやお亡くなりになってしまったことなので、中宮大夫進の墓に並べて埋葬した。延寿は、 「深い情けをかけていただいた頭殿にも先立たれ、その後、頭殿の形見とも思い親しんでいた夜叉御前にも先立たれてしまいました。もう、私ごとき生きていてもどうしようもありません」 と歎いたので、母の大炊もあれこれなだめた。母の思いを裏切るわけにもいかず、延寿は尼になった。そして頭殿の御菩提を熱心に弔われた。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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