さて、義朝と正清の首を持参して、長田は都に上った。平家の御覧に入れたところ、
「よくやった」 ということで、長田は壱岐の守になり、子息先生景致は、左衛門尉に任命された。忠致は抗議して、 「義朝、正清は、昔の将門や純友にも劣らぬ朝敵であるにに、それを国の乱れになるようなことも、人の煩いになるようなこともなく、早々に義朝を討ったのだから、ここは、義朝の所領を一つ残らずいただくか、尾張国は住国なのでここをいただくかということでしょう。それが国の最果ての壱岐国をいただくのでは、これからの励みがありません」
と申しあげた。清盛は、 「お前らはどうしようもない。生まれつき罪科を背負っている者よ。いくら自分がときめきたいからといって、相伝の主や婿を討つなど、この大ばか者めが。しかし、朝敵を討ったのだから、せめて一国を与えたまでよ。それを辞退するというのであれば、どうしようもない」
と言い放した。ところが、忠致がまた訴えたので、 「狼藉の振舞いあり」 ということで、壱岐守は取り戻され、左衛門尉の官もとどめられた。伊予守重盛が 「今日は人の事でも、明日は我が身の上のことだ。人間運が尽きるとこういう事が起こるのだ。他人の目ということもある。今後のためにも、あいつをいただいて、六条河原に引き出し、二十日にかけて二十本の指を切り落とし、首を鋸で切ってやりたいものだ」
と怒った。長田はこの事を伝え聞いて、急いで国へ逃げ帰ったが、まことに面目ない次第である。人々はこれを聞いて、「源氏の世になると、長田は掘首になるか、磔になるか。ああ、なんとかして長田のなれの果てを見たいものだ」
と口々に憎んだ |