〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/11 (火) 義朝内海下向の事 付けたり 忠到心替りの事 (四)

「さては」 とて、三日の日、湯を かさせ、長田、御前ごぜん に参り、 「みやこ合戦かつせん と申し、道すがらの御苦しさ、さこそ御座ござ 候ふらめ」 とて、 「御行水ぎやうずい 候へ」 と申しければ、 「神妙しんべう に申したり」 とて、やがて湯殿ゆどの に入りたまふ。
鎌田をば、長田が前へ呼び寄せて、さけすす む、平賀殿をば出居でい にもてなし、玄光をば遠侍にて酒を勧め、たちばなの 七五郎・弥七兵衛・浜田三郎うかが ひ奉りけれども、金王丸、太刀たち きて、御あか に参りたれば、すべきひま こそなかりけれ。
ややありて、 「御帷子かたびら まゐ らせよ。人は候はぬか」 と言へども、用意したることなれば、返事もせず。金王丸、 「いかに、人はなきぞ」 と、湯殿のほか でければ、三人の者ども、走りちが ひて、つと入り、義朝のはだか にておはしけるを、橘七五郎、むずといだ く。弥七兵衛・浜田三郎、左右さう に寄りて、わき に下を二刀ふたかたな づつ突く。義朝、 「正清まさきよ は候はぬか。金王丸はなきか。義朝ただ今討たるるぞ」 と、これを最期さいご言葉ことば にて、平治二年庚辰正月三日、御年三十八にて せたまふ。
金王丸、このよし 見て、 「にく奴原やつばら かな」 とて、 「一人いちぬん も助くまじきものを」 とて、湯殿の口にて、三人ながら、一所いつしよ せたり。鎌田兵衛、この由を聞き、 「あな、口惜くちを しや。頭殿かうのとの を討ち奉らんためにてありけるものを」 とて、走り でんとする所に、妻戸つまどわき先生せんじやう 景致かげむね 待ち けて、諸膝もろひざ つて せければ、 「正清も、御供おんとも に参り候ふ」 と最期の言葉にて、頭殿と同年どうねん 、三十八にて、 せにけり。平賀ひらがの 四郎義信よしのぶ は、これを聞きたまひ、矢を取りて、走り出でられければ、とど むる者なし。

「それでは、その作戦を実行することにするか」 ということになり、三日の日に、湯を沸かさせ、長田忠致は頭殿の御前に参って、 「都での合戦といい、道中でのご苦労、大変でございましたでしょう」 と言い、 「御行水なさい」 と勧めたところ、頭殿は、 「よくぞ申した」 と言い、すぐさま湯殿へ入りなさった。
鎌田を忠致のところに呼び寄せて、酒を勧めた。平賀殿は客間でもてなし、玄光は武士の詰所で酒を勧めた。手はずどおり、橘七五郎、弥七兵衛、浜田三郎が湯殿の様子をうかがったが、あいにくなこと、金王丸が太刀を身につけて、頭殿の背中流しをしているので、刺し殺すなど、とても出来そうにない。
しばらくして、金王丸が、 「御帷子を持って来い。だれもいないのか」 と言ったが、かねての手はず通り、誰も返事をいない。金王丸が、 「どうした。人はいないのか」 と言いながら湯殿の外へ出て来たところ、三人の者どもは入れ違いにさっと湯殿に走り込んだ。義朝が裸でいらっしゃるのに、橘七五郎がむずと組みついた。弥七兵衛と浜田三郎は義朝の両脇に寄って、脇の下をそれぞれ二刀ずつ突いた。 「正清はいないか。金王丸はいないか。義朝はたった今討たれたぞ」 と言うのが最期の言葉で、平治二年庚辰正月三日、御年三十八でお亡くなりになった。
金王丸はこの様子を見て、 「憎い奴どのが」 とばかり、 「一人残らず殺してやるぞ」 と言いながら、湯殿の入り口で、三人ともそこで斬り伏せた。鎌田兵衛は、このことを聞き、 「ああ、だまされた。自分が頭殿の介錯をすべきだったのに」 と走り出ようとする所を、妻戸の脇に先生景致が待ち構えており、鎌田の両膝を斬って、切り伏せたので、鎌田もたまらず、 「正清も御供つかまつります」 が最期の言葉で、頭殿と同年、三十八歳で死んだ。平賀四郎義信はこのことを聞くや、矢を取って走り逃げたので、だれもとめなかった。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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