さて、海上を経て、尾張国智多郡内海へお着きになった。長田庄司忠致と申す者は左馬頭殿にとって相伝の家人。鎌田にとっては舅であった。この深い縁が頼りで、左馬頭殿らは長田の宿所にお入りになった。あれこれもてなしを受けて、頭殿が、
「ここで年を越して、それから出発したい」 と言ったところ、長田は、 「正月三日の祝い事が過ぎてから、東国へご出発なさったらいいでしょう」 と言うので、 「それでは、そうすることにしようか」
ということになり、そのまま留まった。忠致は子息の先生景致を近くに呼んで、 「この殿を、東国へ下した方がいいだろうか、それともここで討つべきか、どうしたものだろう」
と相談した。景致が言うには、 「頭殿がたとい東国に下ったとしても、まあ、誰も助けてくれないでしょう。となると、人に手柄をあげさせるより、ここで頭殿を討って、平家の御覧に入れ、義朝の所領を全部いただくか、でなければ尾張国でもいただくことにすれば、子孫繁昌というものです」
ということだった。忠致が 「さて、どうやって討ったものか」 と相談したところ、 「御行水をなさいと言って、湯殿へだまして連れ込み、橘七五郎は、美濃・尾張でも評判の大力なのだから組みつく役がいいでしょう。弥七兵衛・浜田三郎は刺し殺す役に当てましょう。鎌田を近くに呼び寄せて酒を飲ませ、合戦の模様など聞いているうちに、頭殿が討たれたと聞いて、駆けつけようとする所を、景致が妻戸の陰に隠れて待ち伏せし、斬ってしまいましょう。平賀四郎は客間でもてなしているので、義朝が討たれたと聞いて逃げ出したら逃がしたらいいでしょう。向かってきたら斬り捨てるだけです。玄光法師と金王丸は武士の詰所で、若者どもの中に取り囲んで、引っ張り、刺し殺すことにして、何の問題もありますまい」
と景致は答えた。 |