〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/11 (火) 義朝内海下向の事 付けたり 忠到心替りの事 (三)

さるほど に、海上かいしやう て、尾張国智多郡ちたのこほり 内海うつみ へも着きたまふ。長田庄司おさだのしやうじ 忠到ただむね と申すは、相伝さうでん家人けにん なり。鎌田がためにはしうと なり。一方ひとかた ならぬよしみ にて、長田が宿所へ入りたまふ。さまざまにもてなしまゐ らせける程に、 「これにて年を取りたまひ、やがて づべき」 よし のたま へば、長田、申しけるは、 「三日の御よろこ び過ぎさせたまひてこそ、御くだ りも候はめ」 と申しければ、 「さては」 とて、御逗留とうりう あり。長田が子息しそく 先生景致せんじやうかげむねを近く呼びて、 「この殿を、東国へくだ すべきか、これにて つべきか、いかがせん」 と言へば、景致申しけるは、 「東国へくだ りておはすとも、よも、ひとたす け候はじ。人の高名かうみやう にせんよりは、ここにて ちて、平家の見参げんざん に入れ、義朝よしとも所領しよりやう 一所いつしよ をも残さずたま はるか、しからずは、当国たうごく をなりとも賜はつて候はば、子孫繁昌しそんはんじやう にてこそ候はんずれ」 と言ひければ、 「さて、なに としてか討つべき」 「御行水ぎやうずい 候へとて、湯殿ゆどの へすかし入れて、たちばなの 七五郎は、美濃みの尾張おわり に聞えたる大力おほぢから なれば、 にて候ふべし。弥七兵衛・浜田はまだの 三郎は、 にて候ふべし。鎌田を近く寄せて、さけ ませて、いくさやう はせたまはん程に、頭殿かうのとの たれたまひぬと聞かば、 でん所を、妻戸つまどかげ景致かげむね まう けて、とど め候はん。平賀ひらが 四郎をば、出居でゐ にてもてなさん程に、義朝討たれんと聞きて、 ちば落し候ふべし。たたか はば、とど め候ふべし。玄光法師と金王丸こんわうまる をば遠侍とほさぶらひ にて、若者わかもの どもの中に取り め、 り、ころ し候はんずるに、何事か候ふべき」 とぞ申しける。

さて、海上を経て、尾張国智多郡内海へお着きになった。長田庄司忠致と申す者は左馬頭殿にとって相伝の家人。鎌田にとっては舅であった。この深い縁が頼りで、左馬頭殿らは長田の宿所にお入りになった。あれこれもてなしを受けて、頭殿が、 「ここで年を越して、それから出発したい」 と言ったところ、長田は、 「正月三日の祝い事が過ぎてから、東国へご出発なさったらいいでしょう」 と言うので、 「それでは、そうすることにしようか」 ということになり、そのまま留まった。忠致は子息の先生景致を近くに呼んで、 「この殿を、東国へ下した方がいいだろうか、それともここで討つべきか、どうしたものだろう」 と相談した。景致が言うには、 「頭殿がたとい東国に下ったとしても、まあ、誰も助けてくれないでしょう。となると、人に手柄をあげさせるより、ここで頭殿を討って、平家の御覧に入れ、義朝の所領を全部いただくか、でなければ尾張国でもいただくことにすれば、子孫繁昌というものです」 ということだった。忠致が 「さて、どうやって討ったものか」 と相談したところ、 「御行水をなさいと言って、湯殿へだまして連れ込み、橘七五郎は、美濃・尾張でも評判の大力なのだから組みつく役がいいでしょう。弥七兵衛・浜田三郎は刺し殺す役に当てましょう。鎌田を近くに呼び寄せて酒を飲ませ、合戦の模様など聞いているうちに、頭殿が討たれたと聞いて、駆けつけようとする所を、景致が妻戸の陰に隠れて待ち伏せし、斬ってしまいましょう。平賀四郎は客間でもてなしているので、義朝が討たれたと聞いて逃げ出したら逃がしたらいいでしょう。向かってきたら斬り捨てるだけです。玄光法師と金王丸は武士の詰所で、若者どもの中に取り囲んで、引っ張り、刺し殺すことにして、何の問題もありますまい」 と景致は答えた。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
Next