〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (下)

2012/09/11 (火) 頼 朝 青 墓 に 下 着 の 事 (二)

佐殿、この由を聞きたまひ、 「今は何をかつつ むべき。義朝よしとも の子なり。なんぢなさ けある者とこそ見れ。頼朝をたす けよ」 とのたま へば、 「わたくし 、きはめて見苦しく候へども、かかる時は、何かくる しく候ふべき。 らせたまひ候へ」 と申し、かた け奉る。我が家に入れ奉りて、めしさけすす め奉り、さまざまにもてなしまゐ らせければ、人心地ひとこごち なりたまふ。
さるほど に、平家のさぶらひ ども、山を でて、この里に し入りて、家毎いへごとさが す。佐殿、この由聞きたまひ、 「いかがせん」 と宣へば、塗籠ぬりごめ の板をはな し、あな を深く り、佐殿を入れ奉り、もと の如くいた けてけり。ひと たりて探しけれども、知らぬやうに たりけり。佐殿、 「南無なむ 八幡大菩薩はちまんだいぼさつ 、助けさせおはしませ」 と、心のうちいの られけるこそあはれなれ。やがてひと 来たりて、塗籠ぬりごめやぶ り、天井てんじやう の上まで探せども、ひと 一人いちにん も見えざりければ、 「これにもおはせず」 とて、みな そこを でにけり。

佐殿はこのことを聞き、 「今はもう何も隠すまい。自分は義朝の子よ。お前は情けのある人物と見た。どうか頼朝を助けてくれ」 とおっしゃる。鵜飼は、 「わが家はひどく見苦しくお恥ずかしいですが、この際、そんなことは言っていられない。どうぞお入りください」 とばかり、頼朝をわが肩で支えて歩き始めた。わが家にお連れし、飯や酒をすすめ、あれこれもてなしたので、頼朝もやっと人心地がついた。
さて、平家の武士たちは山をおりて、この里に押し入り、家捜しを始めた。佐殿はこのことを聞き、 「さてどうしたものか」 と心配したが、鵜飼は塗籠の部屋の床板をはずして穴を深く掘り、佐殿をここに入れて、もとのように床板を打ち付けた。平家の武士どもが来て家探しをしたが、鵜飼はそ知らぬふりをしていた。佐殿は、 「南無八幡大菩薩、お助けくだされ」 と心の中で祈っていたなど、お気の毒なことである。すぐさま人が来て、塗籠の部屋を打ち破り、天井の上まで探したが、人っ子一人もいない様子に、 「ここにも居ない」 ということで、皆家を出ていった。

そののち 、佐殿を だしまゐ らせ、 「何方いづかた へとかおぼ し候ふ」 と申せば、 「青墓あおはか へ」 と宣へば、 「その御姿すがた にては、かな ひ候ふまじ」 とて、女房にようぼう姿かたち になし奉り、むまくら こしらへて乗せ奉り、髭切ひげきり をば物に包みて、おのれ つて、宿やど の女とあひ して行くやうにて、小関こぜき を通り、事故ことゆえ なく、青墓の宿しゆく に入れ奉る。いとま 申して帰りければ、 「 し、不思議ふしぎ にも、世に りと聞かば、たづ ねよ。頼朝も、命のうちわす るまじき」 とて、帰されけり。
この宿しゆく より、生捕いけど りにせられ、みやこ へ帰り入りたまふ。
伊豆国いづのくに へ流されて、廿余年の星霜せいざう を送り、世に でたまひし時、 づこの鵜飼うかひたづ だされ、小平こひら 等を始めて、十 箇所かしよたま はりけり。情けは人のためならずとも、かようの事を申すべき。
大炊おほひ がもとへ入りたまひ、 「われ は頼朝なり」 と宣へば、大きによろこ び、夜叉やしや 御前ごぜん御方おんかた に置き奉り、さまざまにもてなしまゐ らせけり。

その後、鵜飼は佐殿を床下からお出しして、 「どちらへ向かうおつもりで」 と問うたところ、頼朝は 「青墓へ」 と言うので、 「そのお姿ではまずいでしょう」 と答えて、頼朝を女房姿にかえ、馬や鞍を調達して乗せ、髭切はそれとわからぬように物でくるんで自分が持ち、宿の女と連れ立ち歩く風情を装って、小関を通り抜け、無事、青墓の宿にお連れした。別れを告げて帰るに際し、頼朝は、 「もし、万が一にも頼朝が時めいていると聞きつけたら、必ず尋ねて来いよ。頼朝も、生きている間、この厚意は忘れまい」 と礼を言って、鵜飼を帰した。
頼朝はこの宿で生捕りにされ、都へ連行された。
その後、頼朝は伊豆国へ流罪になり、二十年余りの年月を過ごし、その後、勢力を回復、出世なさった時、真っ先にこの鵜飼を探し出して、小平等を始め、十余か所を与えた。情けは人のためならずと言うが、確かに人に親切にするとその貸しは返ってくるというものだ。これないい例である。
大炊の家に入り、 「自分は頼朝よ」 と名乗ったところ、大炊はたいそう喜び、夜叉御前のところで、あれこれお世話することになった。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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