〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (中)

2012/09/10 (月) 常 葉 落 ち ら る る 事 (四)

たそかれ時も過ぎぬれば、行き う人もあと えて、明日あす を待つべき命ともおぼ えず。 「あはれ、人をも見知らざらん山里人やまざとびと の草のいほり もがな。今夜こよひ ばかり身をかく して、子供を助けん」 と思ひゐたるところに、 く火のかげ の見えけるをたの みて近付ちかづ き寄り、竹の編戸あみど を叩きけるに、主人あるじおぼ しくて、大人おとな しき女、戸を開けて でたりける。常葉を見て、怪しげにうちまもり、 「いかにや、かひがひしき人をも せず、をさな き人々をまゐ らせて、この雪のうち に、何処いづく へわたらせおはしますぞ」 と申せば、常葉、 「さればこそ、おつと き心の色を見せしかば、うら めしさの余りに、子供を引き具して でたれども、雪さへ りて、道をたが へてよ」 とて、しほしほとしたる気色けしき にて、心ばかりはまぎ らかさんと、思ひ思はぬよし をすれども、涙はそであま りけり。主人あるじ 、 「さればこそとあやしがりつるが、いかにも唯人ただびと にてはおはしまさじ。かかる乱れの世なれば、しか るべき人のきたかた にてぞおはすらめ。行方ゆくへ も知らぬ人ゆえ に、おとろ へたる下臈げらふ が、六波羅へ だされて、なは をも付き、はぢ を見て、いのち を失ふ程の目に ふとても、 だしたてまつ るべきかは。この里の らひ、たれ け取り まゐ らせざらん。野山にこそおはしまさんずらめ。これほど 寒く へがたきに、明日あす までもいか でかながらへさせたまふべき。家こそ多けれ、かど こそ多数あまた あれ、 おぼ る御事も、この世ならぬ御ちぎり にてぞさぶらふらん。見苦しけれども、 らせたまへ」 とて、 び入れたてまつ る。あたら しきむしろ 取り だし、敷かせ奉る。焚火たきび して て、きやう すす めけり。常葉、あまりのうれ しさともなく、むね ふさ がりて、少しも見ず。子供をば、とかくすか して食はせけり。常葉が有様ありさま を見、主人、心苦しく思ひ、色々にいたは りけり。 「ひとへ清水きよみづ の観音の御あはれ みなり」 と、行末たのもしくぞ思ひける。 

たそがれ時も過ぎて、行き交う人もいなくなった。このままでは明日まで生きているのは難しいと思われた。常葉は、 「ああ、私たちの素性を見知らない、山里人の草庵はないものか。今夜一夜だけでも、どこかに宿を借り、子供を助けなければ」 と思案していたが、炊事のためか火が燃えている光が見えたのを頼りに近付き寄り、竹の編み戸をたたいてみたところ、この家の主人と思われる年配の女が戸を開けて出て来た。常葉を見て、いかにも怪しそうに見守り、 「どうしたの。しっかりお世話してくれる人も連れず、その上、幼い子供連れで、この雪の中をどこへ行こうとしていらっしゃるの」 と問いかけた。常葉は、 「それでございます。夫が私を邪慳にするので、恨めしくて、子供を連れて家を出ましたが、あいにく雪まで降ってきて、道を間違えてしまいましたの」 としょんぼりとした様子で、なんとか気分だけは紛らそうとして、快活なふりを装ったけれども、心は偽ることが出来ず、涙があふれるほど出て来た。主人は、 「何かあるのだろうと怪しんではいあたが、確かに普通のお方ではありますまい。このように乱れた世の中であるので、然るべき北の方でいらっしゃるのでしょう。行方知らずになった人を匿って、老い衰えた下々の身が、たとえ六波羅から呼び出しを受けて捕らえられ、恥をかかせられて命を失うような目に遭おうとも、このまま追い出すわけにはいきますまい。この里の慣い、誰だってお引き受けいたしますよ。これまで野山にいらしたのでしょう。こんなに寒くて耐え難いのに、そんなことをしていたら、明日までだってどうして生きておられましょう。この里には家も多く、門もたくさんあるというのに、わざわざわが家にと思いつかれたのは、何か不思議なご縁があるということなのでしょう。取り散らかして見苦しい家ですが、お入りなさい」 と呼び入れてくれた。わざわざ新しい莚を出してきて、敷いてくれる。火を炊いてくれて暖まり、食事をすすめてくれた。常葉は思いも寄らぬ厚意に嬉しく、これまでの苦労も思い出されて胸がいっぱいになり、少しも食べなかった。子供をあれこれあやしながら食事をさせた。常葉にとって、 「これはもう清水観音のお助けであるに違いない」 と思われ、これからのことにも希望が出て来た。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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