左馬頭
義朝よしとも 、子息しそく
ども数多あまた あり。鎌倉かまくらの
悪源太義平あくげんたよしひらも斬き
られぬ。次男中宮大夫進ちゆうぐうのたいふのしん朝長ともなが
も、首を渡して梟か けられぬ。三男兵衛佐ひやうゑのすけ
頼朝よりとも は、その身を召め
し置お かれて、死生ししやう
未いま だ定さだ
まらず。この外、九条院くでうのいん
の雑仕ざふし 常葉ときは
が腹はら に、子供三人あり。幼をさな
けれども、皆みな 男子なんし
なれば、 「さてはあらじものを」 など、世の人申しあへり。 |
左馬頭義朝には子息が大勢いた。しかし、鎌倉悪源太義平も斬り殺されてしまった。次男中宮太夫進朝長も、その首は都大路を引き回された後、さらされた。三男兵衛佐は捕らえられて、その処罰が未だ定まらず、生きた気がしないというものである。この外、九条院の雑仕常葉との間に三人の子供がいた。幼いとは言っても皆男の子であるので、
「このままではすまされまい」 と人々は噂しあった。 |
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常葉、この事を聞きて、
「我、左馬頭さまのかみ に後おく
れて、歎なげ くだにもあるに、この子供を失うしな
ひては、片時へんし も耐た
へてやはあるべき。幼いとけな
き者ども引ひ き具ぐ
して、適かな はぬまでも、身を隠かく
さん」 と思ひければ、老いたる母にも知らせずして、召め
し仕つか ふ者にも、頼たの
みがたきは人の心なれば、知らせず、夜に紛まぎ
れて迷ひ出い づ。兄は今若いまわか
とて八や つになる、中なか
は乙若おとわか とて六む
つ、末すゑ は牛若うしわか
とて二歳なり、大人おとな しきを先に立た
たせて歩あゆ ませ、牛若をば胸むね
に抱いだ きて、宿所しゆくしよ
を出い でぬ。心の遣や
る方かた もなく、行末ゆくすゑ
いづくとも思ひ分わ かず、足に任まか
せて行く程に、年来としごろ 志こころざし
を運びける験しるし にや、清水寺きよみづでら
へこそ参まゐ りけれ。 |
常葉はこの噂を聞くや、
「私は、左馬頭に死に別れて歎きは尽きないというのに、さらにこの子供を殺されでもしたら、一瞬たりとも、耐えてゆくことはできません。幼い子供たちを連れて、何としてでも、どこかに身を隠すことにしよう」
と決心し、老いた母にもこの決心を語らない。召し使っている者たちにも、頼み難きは人の心というように、信頼が置けないので、そのまま何も言い置かないで、夜の闇に紛れて家を出た。兄は今若といって八歳、中は乙若といって六歳、末の子は牛若といって二歳である。年かさの子供を先頭にして、常葉は牛若を胸に抱き、家から離れた。心配で心配で、これからどうするかとも心に決めかねるまま、ただ足の向くままに任せて歩いているうち、長年信心してきた効験か、清水寺に着いた。
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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