同二月九日、義朝
が三男前兵衛佐さきのひやうゑのすけ頼朝よりとも
、尾張守をわりのかみ 頼盛よりもり
が郎等らうどう 弥平兵衛やへいびやうゑの
宗清むねきよ がために生捕いけど
られて、六波羅へ参る。 宗清、尾張より上のぼ
りけるが、美濃国みののくに 青墓あおはか
の宿しゆく の大炊おほひ
が許もと に留とど
まりたりける。夜よ 明あ
けて見れば、園生そのふ の竹の中に、新あたら
しき墓、卒塔婆そとば も立たぬ、あり。序かね
て聞く事のありしに思ひ合わせて、掘ほ
り起おこ して見れば、斬き
りたる首を屍むくろ ともにぞ埋うづ
みたる。子細しさい を尋たづ
ねければ、大炊、ありのままに申すあひだ、喜びて、首を持たせ、上洛しやうらく
しけり。 |
同二月九日、義朝の三男前左兵衛佐頼朝は尾張守頼盛の郎等弥平兵衛宗清によって生け捕りにされて、六波羅に着いた。 宗清は尾張から京に上る途中、美濃国青は墓宿の大炊の許に立ち寄った。夜が明けてあたりを見回して見ると、庭の竹林の中に、新しい墓で卒塔婆の立っていないのを見付けた。以前聞いていたことと思い合わせて、掘り起こしてみたところ、切り落とした首を死体とともに埋めてあった。事情を聞いたところ、大炊はこれが中宮大夫進の首であることを包み隠すことなく述べたので、喜んで、首を持たせて上洛することになった。
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左兵衛左頼朝は、去年こぞ
十二月二十八日夜、雪深き山を越えかねて、父ちち
に追お ひ後おく
れぬ、爰彼処ここかしこ にさまよひける程に、近江国あふみのくに
大吉寺だいきちじ といふ山寺の僧、不便ふびん
がりて、 「御堂みだう 修造しゆざう
には、人集まりて悪あ しかりなん」
とて、彼か の山を出い
でて、浅井郡あさゐのこほり に出い
でて、迷まよ ひ行ゆ
くところに、老翁老女夫婦ふうふ
ありけるが、あはれみを懸か けて隠かく
し置く。二月になりぬれば、 「さてもあるべきならねば、東国の方かた
へ下くだ りて、年頃としごろ
の者に物を言ひ合せ、親した しき者のあるかなきかをも尋ねん」
と、色々の小袖こそで 、朽葉くちば
の直垂ひたたれ をば宿やど
の主あるじ に取と
らせ、主あるじ が子の着たる布子袖ぬのこそで
に、紺こん の直垂を着き
、藁沓わらぐつ を履は
き、髭切ひげきり といふ重代ぢゆうだい
の太刀の丸鞘まるざや なるを萱すげ
にて包つつ み、脇挟わきはさ
みて、不破関ふはのせき を越えて、関の藁屋わらや
といふ所に着つ きにけり。大衆だいしゆう
打ちて上りけるに憚はばか りて、道の辺ほとり
に立た ち隠かく
れけるを、弥平兵衛やへいびやうゑ
、尾張おはり より上のぼ
るとて、これを見付けて、怪あや
しみ、郎等らうどう を以も
つて召め し捕と
り、 「これは兵衛佐なり」 と喜びて、乗替のりがへ
に乗せて上のぼ りける。中宮大夫進ちゆうぐうたいふのしんの首くび
をも持も たせて上りたり。首をば、検非違使けびいし
受け取りて、渡わた し、梟か
けられぬ。兵衛佐をば、弥兵平衛に預あづ
けられたり。この弥平兵衛、情なさ
けある者にて、様々さまざま 労いたは
り、もてなしけり。 |
兵衛佐頼朝は、去年十二月二十八日の夜、雪深い山に行き悩んで、父の一行に遅れてしまうし、あちこちさ迷っていたところ、大吉寺という山寺にたどり着いた。このの僧は気の毒がり、それでも、
「御堂修造の折には人が集まって来てまずいことになる」 と言うので、その寺を出て、浅井郡の辺をあてもなくさ迷っていたところ、ここに、老翁老女の夫婦がいた。頼朝のことをあわれんで、匿ってくれた。二月にもなったので、頼朝は、
「こうしてばかりいても仕方がないので、東国の方にでも下って、土地の事情に詳しい年かさの者に相談して、自分に加勢してくれる者がいるかどうか尋ねてもよう」 と別れを告げ、さまざま小袖、朽葉色の直垂を宿の主に与え、主の子供が着ていた小袖に、紺の直垂を着、藁沓を履いて、先祖代々に伝えてきた髭切りという太刀で丸鞘に収まっているのを萱で包んで脇挟、不破の関を通って、関の藁屋なる所に着いた。大衆どもが都に上るのを憚って、道のかたわらに隠れていたところ、弥平平衛が尾張から京に向かう途中、これを見付けて不審に思い、郎等どもに捕らえさせ、吟味の末、
「これは兵衛佐に違いない」 とわが手柄を喜んで、頼朝を乗替え馬に乗せて京に上った。また、中宮大夫進の首も人に持たせて京に向かった。首は検非違使が受け取って、都大路を渡した後、さらし首にされた。兵衛佐の身柄は、弥平平衛に預けられた。この弥平兵衛は心やさしく情けある人物で、頼朝をあれこれ気遣ってお世話した。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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