鎌倉悪源太、近江国あふみのくに
石山寺いしやまでら の傍かたは
らに、重病に冒をか されて居ゐ
たりけるを、難波なんばの 三郎経房つねふさ
、聞き及およ びて、押し寄せて、生捕いけど
り、六波羅ろくはら へぞ参まゐ
りける。 >伊藤武者いとうむしや
景綱かげつな を以も
って、子細しさい を御尋たづ
ねあり。悪源太申しけるは、 「故こ
義朝よしとも が申し候ひしは、『我われ
、東国へ下りて、武蔵むさし 、相模さがみ
の家人等けにんら を相あひ
具ぐ して、海道かいだう
を攻せ め上のぼ
るべし。義平よしひら をば、甲斐かひ
、信濃しなの の勢ぜい
を相あひ 語かた
らひて、山道さんだう を攻せ
めて上のぼ れ』 と申ししかば、山伝やまづた
ひに、飛騨国ひだのくに へ落ち行きて、世になし者ども三千人も付つ
きてぞ候ひつらん。されども、義朝討う
たれ候ひぬと聞きて、散々さんざん
になりぬ。自害じがい せん事は易やす
かりしかども、平家、然しか るべき人を一人いちにん
も狙ねら ひて、世をこそ取らざらめ。本意を遂と
げんと存じて、人の下人げにん
のやうに身を窶やつ し、馬を控ひか
へて、門にたたずみ、履物はきもの
を取りて沓脱くつぬぎ にひざまづき、などせしかども、用心ようじん
厳きび しくて、力ちから
なく、日夜にちや をかくる程に、怪あや
しげに見る人もあり、宿運しゆくうん
の極きは めにて、生捕いけど
られたり」 とぞ申しける。 |
鎌倉の悪源太は近江国石山寺の傍らで、重病になり隠れ住んでいたが、難波三郎経房がこのことを聞き出して、押し寄せて生け捕り、六波羅に連行した。 伊藤武者景綱をして、厳重な尋問があった。悪源太は、
「故義朝が言うには、 『自分は東国に下り、武蔵、相模の源氏の武士を引き連れて、東海道を攻め上ろうと思う。義平は甲斐、信濃の勢を仲間にして、中山道を攻め上れ』
とのことで、山伝いに、飛騨国に落ちのびて、それでもあぶれ者ども三千人も味方につけただろうか。しかし、義朝が討たれたと聞いて、それらの者もちりぢりになってしまった。自害することはたやすいことだが、平家の主だった者をせめて一人でも狙って討ち果たし、世を取りたいもの、ぜひ本意を遂げたいものと考えて、人の下人のように身をやつし、馬をとどめて、門のあたりを行き来して、履物を取って沓脱ぎのあたりにひざまづいて様子をうかがったりしたが、用心が厳しくて、どうしようもなく、何日もねらっていたが、あやしまれ、宿運の定めはどうしようもなく、生け捕られてしまった」
と答えた。 |
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伊藤武者申しけるは、 「源氏の嫡々ちやくちやく
、さしも名将めいしやう の聞きこ
えありし人の、容易たやす く生捕いけど
られたまひぬる無念むねん さよ」
と申せば、 「その事よ。雪深き山を分け、雨に打う
たれ、吹雪ふぶき に遭あ
ひ、身は草臥くたび れ果は
てぬ。この程、京六波羅にありしにも、薄うす
き衣きぬ にして川風に犯をか
され、食乏じきとも しけれども、身を痛いた
め、偏ひとへ に敵てき
を討う たんと思ひし心一ひと
つを力にて、月日を重ねし積つも
りにや、病やまふ に犯おか
されて、経房つねふさ に生捕いけど
られたるなり。重病に力ちから
落お ちずは、経房つねふさ
様やう なる者二、三人も、捩ね
ぢ殺ころ してこそ死なんずれ。全まつた
く武勇ぶよう の瑕瑾かんき
にはあらず。運命うんめい 尽つ
き果は つる所なり」 とぞ申しける。諸人、これを聞きて、
「道理ことわり 至極しごく
せり」 とぞ申しあへる。 |
伊藤武者が、
「貴殿は源氏の嫡々、あれほど名将の評判の人が、こんなに簡単に生け捕りになるとは心残りのことだろう」 と言いかけると、悪源太は、 「その通り。雪深い山に分け入り、雨に降り込められ、吹雪のあい、わが身はすっかりくたびれ果ててしまった。この度、京六波羅に居た時も、薄い衣で川風に当り、食物もともしいので、すっかり体をこわし、ただもう敵を討つとの思いだけがたよりで、ここまで日月重ねてきたせいだろう、病気になり、経房に生け捕られてしまった。重病にかかって力が落ちていなかったら、経房ごとき者の二、三人もひねり殺して、死んだものを。武勇のいたらなさではなく、運命が尽きてしまったせいだ」
と申し開きをした。この場に居合わせてこれを聞いた人々は、 「確かに道理にあっている」 と言い合った。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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