同じき六日、一院
は仁和寺宮にんわじにみや の御所を出い
でさせたまひて、八条堀川はちでうほりかは
の皇后宮大夫くわうごうのたいふ顕長卿あきながのきやう
の宿所しゆくしよ へ御幸ごかう
なる。これは、三条殿さんげうどの
炎上えんしやう のあひだ、暫しばら
く御所になるとぞ聞えし。 同じき七日、尾張国をはりのくに
の住人長田庄司をさだのしやうじ
忠到ただむね 、子息先生せんじやう
景到かげむね 、上洛しやうらく
して、左馬頭さまのかみ 義朝よしとも
が首くび 持参ぢさん
の由よし 由よし
申す。この忠到は、平大夫へいやいふ
知頼ともより が末葉まつえふ
、賀茂かもの 二郎行房ゆきふさ
が孫、平へい 三郎宗房むねふさ
が子なり。義朝が重代ぢゆうだい
の家人けにん たるうへ、鎌田かまだ
兵衛びやうゑ が舅しうと
なり。京中の上下、聞き及およ
ぶほどの者、 「忠到父子ふし
が頸を鋸のこぎり にて引ひ
き切き らばや」 とぞ悪にく
みける。平大夫へいのたいふ 判官兼行はんぐわんかねゆき、宗判官そうはんぐわん
信房のぶふさ 、忠頼ただより
、憲盛のりもり 、府生ひしやう
朝忠ともただ 以下いげ
、検非違使けびゐし 八人行き向ひて、二つの首を請う
け取り、西にし の洞院とういん
の大路おほぢん を三条より近衛こんゑ
まで渡して、左ひだり の獄門ごくもん
の樗あふち の木にぞ梟か
けられける。いかなるあとなし者かしたりけん、元もと
は下野しもつけ たりし事を歌に詠よ
みて、札ふだ に書きてぞ立てたりける。 |
『下野しもつけ
は 木き のかみにこそ なりにけれ よしとも見えぬ かけ司つかさ
かな』 |
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昔、将門まさかど
が首、獄門に梟か けられたりけるを、藤六とうろく
といふ歌詠うたよみ が見て、 |
『将門は こめかみよりぞ 斬き
られける 俵たわら 藤太とうた
が はかりごとにて』 |
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と読みたりければ、この首くび
、 「しい」 とぞ笑ひける。二月に討う
たれたる首を、四月に持ち上のぼ
りて梟か けたりけるに、五月三日に笑ひけるこそ恐おそ
ろしけれ。 「義朝が首も笑ひやせん」 とぞ申しあへる。 |
同六日、一院は仁和寺の宮の御所を出て、八条堀川の皇后宮太夫顕長卿の宿所に御幸なさった。三条殿が焼け落ちてしまったので、暫く御所になさるということだった。 同七日、尾張国の住人長田庄司忠到と子息先生景到が上洛して来て、左馬頭義朝の持参した旨申し出た。この忠到は平大夫知頼の末孫、賀茂二郎行房の孫、平三郎宗房の子である。義朝にとっては重代の家人である上、鎌田兵衛の舅に当る。京中の人々、これを聞く者は、皆一同に、
「忠到父子の首を鋸で引き斬りたい思いのすることよ」 と、憎んだことである。平大夫判官兼行、宗判官信房、忠頼、憲盛、府生朝忠以下、検非違使八人が出向いて、この二つの首を受け取り、西の洞院の大路を三条通りから近衛通りまで引き回して、左の獄門の樗の木にかけてさらした。どのような分別のない馬鹿者がしたのだろうか、義朝がもとは下野守であったことを歌に詠み込んで、札に書いて立てた。 | 『義朝はあわれ梟し首になったが、さしずめ、下野守が紀伊守なったということか、それにしてもさえない兼官ということよ』 |
| 昔、将門の首が獄門にさらされているのを藤六という歌人が見て、 | 『将門はこめかみのあたりから斬られてしまったことよ。俵藤太のはかりごとで』 |
| と読みかけたところ、この首は
「しい」 と笑ったということだ。二月に討たれて、四月に都に持参してさらされていたのが五月三日になって笑ったのだから恐ろしいことだ。 「義朝の首も笑うことがあるのだろうか」
と人々は噂しあった。 |
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去さ
んぬる保元ほうげん の合戦には、為義入道ためよしにふだう
を、郎等らうどう 波多野はだの
二郎に斬らせ、僅わず かに一両年の内うち
ぞかし。今度の合戦に打ち負けては、譜代ふだい
の郎等らうどう 忠到が手に懸かりて、身を亡ぼす。
「逆罪ぎやくざい の因果いんぐわ
、今生こんじやう に報むく
ふ。来世、無間みげん の苦く
、疑うたが ひなし」 と群集ぐんじふ
せる貴賎きせん 上下、半なか
ば謗そし り、半ば憐あはれ
みけり。 同じき十日、世上せじやう
の動乱どうらん により、 「この年号然しか
るべからず」 と沙汰さた ありて、改元かいげん
あり。永暦えいりやく 元年とぞ申しける。去年こぞ
四月に保元ほうげん を平治へいぢ
に改あらた められたりしを、
「平治とは、平たひら に治をさま
ると書か けり。源氏滅ほろ
びなん」 と、才さい ある人申せしが、果は
たして、この合戦かつせん 出い
で来き て、源家げんけ
多く亡ほろ びけるこそ不思議ふしぎ
なれ。 |
去る保元の合戦では、父為義入道を郎等の波多野二郎に斬らせてから、まだ一、二年しかたっていない。今度の合戦に敗れて、義朝は譜代の郎等忠到の手にかかって、死んでしまった。
「逆罪の因果は今生に報いが来た。これでは、来世は無間の苦に悩まされること間違いない」 と、獄門のあたりに集まっていた者は皆、謗り半分、そして半分は義朝のことを憐れんだ。 同十日、合戦のため世はすっかり乱れきって、そこで、
「この年号はふさわしくない」 ということになり。改元があった。永暦元年という。去年四月に保元を平治に改められた際、 「平治とは、平に治まると書く。源氏が亡びるにちがいない」
と識者が予言したことがあるが、はたして、この度の合戦が起こり、源氏の多くの人々が亡んだのは、思えば不思議なことである。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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