平治
二年正月一日、あらたまに年に立た
ち返かへ れども、元日ぐわんにち
・元三ぐわんざん の儀式ぎしき
、事宣ことよろ しからず。内裏だいり
にも、天慶てんぎやう の例とて、朝拝てうはい
を留とど めらる。上皇しやうくわう
は仁和寺にんわじ にましませば、拝礼はいれい
もなかりけり。同じき五日、左馬頭さまのかみ
義朝よしとも が童わらは
金王丸こんわうまる 、常葉ときは
が許もと に忍びて来たり、馬より崩くづ
れ落ち、暫しば しは息いき
絶た えて物ものも言はず。程ほど
経へ て起き上がり、 「頭殿かうのとの
は、去さ んぬる三日に、尾張国をはりのくに
野間のま と申す所にて、重代ぢゆうだい
の御家人ごけにん 長田をさだの
四郎忠到ただむね が手に懸か
かりて、討う たれさせたまひ候ふ」
と申しければ、常葉を始はじ めて、家中かちゆう
にある程の者、声々こゑごゑ に泣き悲しみけり。実まこと
に歎なげ くも道理ことわり
なり。枕まくら を並べ、袖そで
を重かさ ねし名残なごり
なれば、身一つなりとも悲しかるべし。いかに況いは
んや、幼いとけ なき子供三人あり。兄あに
は八つ、中なか は六つ、末すゑ
は二歳さい 、いづれも男子なんし
なれば、 「捕と り出い
だされて、また、憂う き目め
をや見んずらむ」 と泣き悲しむこと、譬たと
へんかたぞなかりける。 |
平治二年正月一日、新年になっても、元日、元三の儀式ははかばかしkなかった。内裏でもm天慶の乱の時の例にならって、朝拝も留められた。上皇は仁和寺にいらしたので、拝礼も行われなかった。 同五日、左馬頭の童金王丸が常葉の許に人目を避けてやって来た。よほど疲れているらしく、馬から崩れるように落ち、しばらくは気を失っているらしく何も言わない。よほど時間がたってから起き上がり、
「頭殿は、去る三日、尾張国野間という所で、重代の御家人長田四郎忠到の手にかかって討たれてしまわれました」 と報告した。常葉を始め、家中に居た者はこれを聞きつけて、声をあげて泣き悲しんだ。確かにお歎きになるのはもっともなことである。枕を並べ、袖を重ね敷いたことのある夫婦の縁であってみれば、自分一人だけ取り残された境遇としても悲しいことであるに違いない。まして、常葉には幼い子供が三人いる。兄は八つ、中の子は六つ、末の子は二歳、皆男の子のことだから、
「きっと捕らえられて、またつらい目にあうことだろうよ」 と泣き悲しみなさったが、その悲しさたるや譬えようもなく、大変なものであった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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