〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (中)

2012/09/05 (水) 常葉註進 並びに 信西子息遠流に処せらるる事 (三)

かくて、はる海路かいろむか へば、鳴海なるみ の浦の潮干潟しほひがた二村ふたむら 山、宮路みやぢ 山、高師たかし の山、浜名はまなはしわた り、小夜さよ中山なかやま宇津うつ の山、都にて名をのみ聞きし富士ふじ高嶺たかね を打ちなが め、足柄あしがら 山を越えぬれば、いづくを道の限りとも知らで分け入る武蔵野むさしの や、掘兼ほりかねたづ ね見る。さるほど に、中将、下野しもつけ国府こふ に着きて、我が住むべかんなるむろ八島やいま とて見たまへば、けぶり 心細く立ちのぼ り、おり からの感慨かんぐわい とど めがたくて、泣く泣くこうぞ思ひ続けける。
『我がために ありけるものを 下野しもつけ や  むろ八島やしま に 絶えぬ思ひは』
かくして、遠く広がる海路に向うと、鳴海の浦の潮干潟、あるいは二村山、宮路山、高師の山、浜名の橋も渡って、小夜の中山、宇津の山、都で名前だけ聞き知っている富士の高嶺を眺め、足柄山を越えて、どこが道の果てとも知れぬ武蔵野を分け入って、掘兼の井を尋ね見た。とかくするうち、中将は下野の国府に着き、自分が住むことになるだろう室の八島の方を御覧になると、煙が心細そうに立ち上がっている。折から込むあげてくる感慨を抑えることが出来ず、泣く泣く次のような思いを述べた。
『自分の為に用意されていたのだなあこの室の八島は。下野の室の八島は思いのたけが煙となり立ち上がっていることよ』
この所をば、夢にも見んとは思はざりしかども、今はすみかあと め、 らはぬひなくさいほ 、何にたと へんかた もなし。昔今むかしいま の事ども、思ひ続くる涙のそで 、いづれの年、いづれの日、かわ くべしともおぼ えず。さすが消えぬ、露の命のながらへて、明けぬ暮れぬと過ぎ行けども、望郷ぼうきやう の思ひは きざりけり。
この所をまさか見ることになるだろうとは思ったこともなかったが、今は宿所として住み、慣れぬ田舎の草葺の庵など、何に譬えていいか分からない。昔のこと、今のことあれこれ思い続けては涙で袖を濡らす。いつの年いつの日になったらこの袖は乾くのか、その日が来るとも思えない。それでもともかくはかない命を生きて、日々を過ごすのだけれども、望郷の念尽きることはなかった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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