〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (中)

2012/09/03 (月) 常葉註進 並びに 信西子息遠流に処せらるる事 (二)

少納言せうなごん 入道にふだう 信西しんぜい が子供、僧俗そうぞく 十二人、遠流をんるしよ せられけり。 「君のために命を捨てたりし忠臣ちゆうしん の子供なれば、信頼のぶより義朝よしとも に流されたりとも、朝敵てうてき ほろ びなば、かへ されて、抽賞ちうしやう こそあるべきに、結句けつく流罪るざいとが 、すべて心得がたし。この人々おぼ つか はれば、信頼卿のぶよりきやう 同心の振舞ふるま ひ、天聴てんちやう にやたつ せんずらんと恐怖きようふ して、新大納言しんだいなごん 経宗つねむね別当惟方べつたうこれかた が申しすす めたるを、天下てんが擾乱ぜうらんまぎ れて、きみしんおぼあやま りてけり」 とぞ申しあへりける。
少納言入道信西の子供、僧續十二人は遠流の処罰を受けた。 「主君のために命を捨てた忠臣の子供なのだから、信頼や義朝に流罪されても、これら朝敵が滅びた時は、都に呼び戻され、格別の賞があって当然なのに、結局、流罪にされるなど、すべて納得しがたい。この人々を召し使えば、信頼卿に同心の振舞も、天皇のお耳に入らないだろうと考えて、新大納言経宗と別当惟方が勧めてしたことなのに、天下の騒動に紛れて、君も臣下の者も誤解している」 と評判しあった。
この人々は、内外ないげ 、人にすぐ れ、和漢のさい 、身にあま りたりしかば、配所はいしよおもむ くその日までも、ここかしこの宿所に寄りあひて、詩を作り、歌を みて、互ひに名残なごり をぞ しみける。既に国々へ分かるる時も、消息せうそく に思ふ心を述べて、行くをぞ送りける。西海さいかいく に赴く人はみなく八重やへ潮路しほぢ を分け行き、東国へくだともがら は、万里ばんり山川さんせんへだ てたり。せき を越え、宿やど りは変はれども、さらになぐさ まず。日をかさ ね、月を送れども、涙は尽きせざりけり。
この信西の子供等は、内典が外典の知識は人より勝れており、和歌漢詩の才能も大変素晴らしかったので、配所へ出かけるその日まで、あちこちの宿所に寄り合っては、詩を作ったり、和歌を詠んだりして、お互い名残を惜しんだ。いよいよ諸国に分かれて赴く時も、手紙に相手のことを思いやる心を書いて、その出発を見送った。西海に赴く人は皆、海上はるか八重の潮路分けて進み、東国に赴く人もまた、遥か遠く山川を隔てることになった。関を越え、宿も日々変るものの、いっこうに心安まらない。日月たっても、涙は常に流れてやまないことだった。
中にも、播磨中将はりまのちゆうじやう成憲しげのり の、老いたる母、いとけ なき子を振り捨てて、遼遠れうゑん たるさかひ に趣きける心のうち 、言ふはかりなし。せめて都の名残なごり しさに、所々ところどころやす らひて、行きも りたまはず。粟田口あはたぐち に馬をとど めて、
『陸奥みちのく の 草の青葉あおば に こま 止めて  なほ故郷ふるさと を かへ り見るかな』
なかでも、播磨中将成憲が、老いた母や幼い子を残して、遥か遠くの国に赴くその心中、どんなだったであろうか。せめての都の名残を惜しんで、あちこちでひと休みして、なかなか出発しようとなさらない。粟田口で馬を留めて、
『陸奥の草の青葉を賞でて馬をやすめ、かなわぬながら都の方をかえりみることだろうよ』
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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