伏見源中納言師仲卿もろなかのきやう
、子細しさい を召め
し尋たづ ねらる。 「師仲は勧賞けんじやう
を蒙かふぶ るべき身にてこそ候へ。その故ゆゑ
は、信頼卿のぶよりきやう 、内侍所ないじどころ
を既すで に東国へ下くだ
し進まゐ らせんと巧たく
み候ひしを、女房坊門局にようぼうもんのつぼねの宿所、姉小路東洞院あねがこうぢひんがしのとうゐんに隠し置き進まゐ
らせて候へば、朝敵に与同よどう
せざる所見しよけん 、何事かこれに過ぎ候ふべき。信頼卿、権勢けんぜい
に恐れて、心ならぬ交まじは りにてこそ候ひしか。よくよく聞きこ
し召め し開ひら
かるべく候ふ」 とぞ申されける。河内守かはちのかみ
李実すえざね 、子息しそく
左衛門尉さゑもんのじょう 李盛すゑもり
父子ふし ともに斬られにけり。
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伏見源中納言師仲卿が事情を尋問された。そこで、
「師仲は、かえって勧賞をいただくべき身です。そのわけは、信頼卿が神鏡をあわや東国へお移ししようと企んだのを、私は、女房坊門の宿所、姉小路東洞院に隠し置きました。朝敵には与しないとの私の考えを証明するのに、これ以上の証拠はございません。信頼卿の権勢の恐れをなして、心ならぬ交際をしただけです」
と申し開きをした。河内守李実、子息左衛門尉李盛の父子はともに斬られた。 |
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さる程ほど
に、平家へいけ 、今度こんど
合戦かつせん の勧賞けんじやう
行はる。大弐だいに 清盛きよもり
嫡子ちやくし 左衛門佐さゑもんのすけ
重盛しげもり 、伊予守いよのかみ
に任にん ず。次男大夫判官たいふのはんぐわん
基盛もともり は、大和守やまとのかみ
に任ず。三男宗盛むねもり 、遠江守とほたふみのかみ
に任ず。清盛の舎弟しやてい 参河守みかはのかみ
、尾張守になる。span>伊藤武者いとうむしや 景綱かげつな
、伊勢守いせのかみ になる。上卿しやうけい
は、花山院大納言はなやまのゐだいなごんん忠雅ただまさ
、職事しきじ は、蔵人右少弁くらんどうせうべん朝方ともかた
とぞ聞えし。 信頼卿兄あに
の兵部権大輔ひやうぶのごんのたいふ基家もといへ
、民部少輔みんぶのせふ 基道もとみち
、新侍従しんじじゆう 信親のぶちか
、尾張少将おわりのせうしやう
信俊のぶとし 、播磨守はりまのかみ
義朝よしとも 、中宮大夫ちゆうぐうのたいふの
朝長ともなが 、兵衛佐ひやうゑのすけ
頼朝よりとも 、佐渡式部大夫さどのしきぶのたいふ
重成しげなり 、但馬守たじまのかみ
有房ありふさ 、鎌田かまだ
兵衛政家びやうゑまさいへ 、その親類しんるい
縁者えんじや 、七十三人が官職を止とど
めらる。昨日までは朝恩てうおん
に浴よく して、余薫よくん
を一門に与へしかども、今日けふ
は誅戮ちゆうりく を蒙かうぶ
りて、愁歎しうたん を九族きうぞく
に及およく ぼす。夢の楽しみ、現うつつ
の悲かな しみなり。一夜いちや
の月、早く有漏うろ 不定ふぢやう
の雲に隠かく れ、朝あした
の笑ゑみ は夕ゆふべ
の涙なり。片時へんし の花、無常の転変てんぺん
、盛衰せいすい の道理ことわり
、眼前がんぜん にあり。生死しやうじ
の境さかひ 、誰たれ
の人かこの難なん を遁のが
るべき。 |
さて平家では、この度の合戦についての勧賞が行われた。大弐嫡子左衛門佐重盛、伊予守に任命。次男大夫判官基盛は、大和守に任命。三男宗盛、遠江守に任命された。清盛の舎弟參河守は尾張守になる。伊藤武者景綱は伊勢守になった。上卿は、花山院大納言忠雅、職事は、蔵人少弁朝方ということであった。 信頼卿兄の兵部権大輔基家、民部少輔基道、新侍従信親、尾張少将信俊、播磨守義朝、中宮大夫朝長、兵衛佐頼朝、佐渡式部大夫重成、但馬守有房、鎌田兵衛政家、その親類縁者、七十三人が官職を止めさせられた。昨日までの朝恩を身に受け、またその余徳を一族に与えたとはいえ、今日は処罰を受けてその愁いを九代の親族に及ぼしてしまう。夢での楽しみ、現実の悲しみとはこのようなことを言うのであろう。一夜の月がたちまちのうちにただよう雲に隠れ、朝の喜びの夢は夕の悲しみの涙である。花の美しさはほんの僅かの間の譬、無常の変転、盛衰の道理、皆目の前に展開する。生死の境もまた同様、誰も死を遁れることは出来ない。 |
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堀河天皇ほりかはてんわう
の御宇ぎよう 嘉承かしよう
二年、対馬守つしまのかみ 源義親みなもとのよしちか
誅伐ちゆうばつ せられしより以来このかた
、近衛院このゑのいん の御宇久寿しうじゆ
二年に至るまで、既に三十余年、天下てんか
、風静しづ かにして、民たみ
、唐尭たうげう 虞舜ぐしゆん
の仁恵じんけい に誇ほこ
り、海内かいだい 、波なみ
治おさ まりて、国、延喜えんぎ
天暦てんりやく の徳政とくせい
を楽しみしに、保元ほうげん の合戦出い
で来たり、幾何いくばく の年月をも送らざるに、また兵乱ひやうらん
打ち続き、 「世既すで に末すゑ
なり、国の亡ほろ ぶべき時節じせつ
にやあるらむ」 と、心ある人、悲しまぬはなかりけり。 同じき二十九日、また公卿僉議くぎやうせんぎ
あり。 「この程、大内おほうち
には、凶徒等きようとら 、殿舎でんしや
に宿しゆく して、狼藉らうぜき
数日すじつ なり。皇居くわうきよ
を清きよ められずして、行幸ぎやうがう
ならん事、しかるべからず」 と申されしかば、八条烏丸はちでうからすまる
、美福門院びふくもんいん の御所へ行幸なる。左衛門佐重盛、直衣なほし
に矢や 負ひ、供奉ぐぶ
せられける。 |
堀河天皇の時代嘉承二年、津島守源義親誅伐が討たれて以来、近衛天皇の時代久寿二年の間、すでに三十余年になるが、天下、吹く風は穏やかで、民は、唐尭虞舜
のようなすばらしい恵みをいただき、また海内も波立つこともなく、国は延喜天暦の頃のような徳政を楽しんでいたのに、保元の合戦が起こった。それからいくらの年月もたたないのに、また兵乱が続いて起こるなど、
「世はもう末世になり、国の滅ぶ時節になったのだろうか」 と思慮ある人は皆悲しんだ。 同二十九日、また公卿の会議があった。 「この度、大内は、凶徒等が殿舎に泊り込んで、その狼藉は数日に及んだ。皇居を清めないまま、ここに行幸なさることはよろしくない」
との決定で、天皇は八条烏丸の美福門院の御所へ行幸なさった。左衛門佐重盛は直衣姿で矢を負って供奉された。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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