〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (中)

2012/09/01 (土) 信頼降参の事 並びに 最期の事 (三)

衛門督信頼卿は、六波羅近き河原に ゑられて、左衛門佐重盛、子細しさいたづ ねらる。申し だしたるかた もなし。 「ただ天魔てんますす めなり」 とぞ申しける。我が身の重科ぢゆうくわ をば知らず、「命ばかりは御助け候へ」 と泣く泣く申しければ、重盛、 「なだ められておはすとも、なに 程の事か候ふべき。その上、よも助かりたまはじ」 と返事せられければ、ただ泣くよりほかの事ぞなき。 んぬる十日より、大内おほうち みて、様々さまざま僻事ひがごと をのみ申し行ひしかば、百官、竜蛇りようだどくおそ れ、万民ばんみむ 虎狼ころうがいなげ きしに、 「今日けふ有様ありさま田夫でんぷ野人やじんなほ たつと かるべし、乞食こつじき非人ひにん にも劣りたり」 とて、見物けんぶつ上下じやうげ 、あざけりあへり。 の、 「左納言さとうげん右大夫うたいふあした に恩を けて、ゆふべ に死をたま はる」 と、白居易はつきよゐ が書きけるも道理ことわり なり。泣けどもかひ なく、わめ けどもかな はず、つひかうべ ねられぬ。だいおとこふと りたるが、首を取られて、むくろ のうつぶさまに伏したる、目も てられぬ有様なり。
衛門督信頼卿は、六波羅近くの河原に座らされて、左衛門佐重盛が、くわしい事情を尋問した。しかし、取り立てて弁明することもしない。ただ、 「天魔の勧めによる」 とだけ答える。自分が罪科を犯したことを自覚せず、 「命だけはお助けくだされ」 と泣く泣く申すので、重盛は、 「寛大な処分といったところで、大して期待できまい。それに、助かることなどありえない」 と返事をしたが、ただもう泣くばかりであった。この信頼卿は、去る十日から、大内に住んで、さまざまの悪事のしたい放題だったから、官僚は竜蛇の毒と恐れ、民は狐狼の害と歎いたこともあったが、 「今日の信頼卿の様子を見ていると、田夫、野人の方がなお貴い。乞食、夜叉にも劣る」 と、見物の人々は皆、あざ笑った。あの、 「左納言、右大夫は、朝に恩を受け、夕には死罪になる」 の文言は、白居易の書いたもの、道理にかなっている。泣いても、おめ いても何のかいもなく、終に首を切られた。大男で太っていたが、首は取られて、むくろがうつぶしに倒れている様子は、見るにしのびないことであった。
ここに、よはひ 七十あま りなる入道にふだうかき直衣なほし 着て、文書袋もんじよぶくろ くび けたるが、鹿杖かせづゑ き、おほ き人の中を分け入りける。 「信頼卿年来としごろ下人げにんしゆ のなれる てを見んとて たれるにや」 とて見る程に、さはなくて、むくろにら みて、持ちたる鹿杖を取り直し、二打ふたうち 三打みうち ちたりければ、見る者、これをあや しと思ふところに、この入道にふだう 言ひけるは、 「相伝さうでん世帯しよたい を、無理むりおの れに押領あふりやう せられ、我が身をはじめて孫子まごこ ども、飢寒きかん苦痛くつう められつるは、己れが所行しよぎやう ぞかし。その因果いんが むく ひて、くび られ、入道にふだう が目の前に恥をさら す事の嬉しさよ。大弐殿だいにどの 嫡子ちやくし 左衛門佐殿さえもんのすけどの賢明けんめい におはしませば、この文書もんじよ 見参げんざん に入れ、本領安堵あんど して、己れが草のかげ にて見せんずるぞ」 とて、帰りけり。
この時、齢七十余りの入道が、柿色の直衣を着て、文書袋を首のかけ、鹿杖を突いて、大勢の中をかき分けて入って来た。 「信頼卿に長く使われていた下人が、主人の死体を拝もうとして来たのだろうか」 と人々が注目していると、そうではなくて、むくろを睨んで、持っている鹿杖を取り直したと見るや、二打ち三打ち、打ちかかったので、見物の衆怪しんでいると、この入道は、 「相伝の所領を、無理にお前に取り上げられ、自分を始め孫や子まで飢寒の苦痛に責められたのはお前の所行よ。その因果の報いで、首を斬られ、自分の目の前に恥を曝しているのは嬉しいことだ。大弐殿の嫡子左衛門佐殿は賢明でいらっしゃるから、この証拠の文書を御覧に入れて、所領を取り戻して、お前にあの世から見せてやるぞ」 とののしって帰って行った。
重盛、六波羅へ帰りて、信頼卿がかうべ ねられたるよし 、人々に語り申されければ、 「最後はいかに」 とたづ ねたまふ。左衛門佐、 「その事ざうら ふ。不便ふびん なる中にも、をかしきこと数多あまた 候ふ。いくさ の日、馬より落ちて、はな の先少し けて候ひし時、また、落ち行き候ふ時、義朝よしともむち にて頬先ほほさき を打たれて、うるみ色に見えて候ふ」 と申されければ、大宮左大臣おほみやのさだいじん 伊通公これみちこう 申されけるは、 「一日いちじつ猿楽さるがく 鼻を欠く、といふ世俗せぞく狂言きやうげん こそあれ。この信頼は、一日のいくさ に鼻を欠きてけり」 とのたま ひければ、みな 人、一同にどつと笑はれけり。御所にもきこ して、左少弁させうべん 成頼なりより を召して、御たづ ねあり、成頼、事のよし奏聞そうもん すれば、主上も笑壺ゑつぼ に入らせたまひけり。この伊通公これみちこう は、節会せちゑ行幸ぎやうかうみぎり天下てんか の御大事議定ぎぢやう の御 にても、をかしき事をのみ申さるれば、公卿くぎやう殿上人てんじやうびと 、皆きよう に入りて、礼儀れいぎすた る程なり。されども、才覚さいかく も人にすぐ れ、芸能げいのう も世に えて、朝家てうかかがみ にておはせしかば、君もおぼゆる し、臣もそし り申さず。
重盛が六波羅へ帰って、信頼卿が首を斬られた次第を人々に語ったところ、 「最後の様子はどんなでした」 と尋ねる者がいる。左衛門佐が、 「その事よ。かわいそうななかに、おかしいことがたくさんあった。合戦で落馬して、鼻の先が少し欠けてしまいました、逃走のさなか、義朝に鞭で頬先を打たれて青黒い傷跡が残っていた」 と話したところ、大宮左大臣伊通公が 「一日の猿楽鼻を欠くという洒落がある。この信頼は、一日の合戦で鼻を欠いたということか」 とおっしゃたので、皆々どっと笑い合った。天皇もこの笑い話のことをお聞き及びになり、左少弁成頼を呼び寄せて、御尋ねがあった。成頼がことの次第を報告したところ、天皇も大そうお笑いになった。この伊通公は、節会や行幸の際、天下の重大事を扱う会議の席でも、おかしなことを絶えず言うので、公卿や殿上人が皆おかしがり、厳粛であるべき儀式の雰囲気もこわされるというほどである。しかし、学問は人にすぐれ、諸芸またすばらしいもので、君もお許しなさり、臣もまた非難することはなかった。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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