上皇
は仁和寺にんわじ 御室おむろ
にまします由よし を承うけたまは
りて、 「昔の御恵みの余波まごり
ならば、御助けあらんずらん」 と思ひ、信頼卿、頸くび
を伸の べてぞ参まい
りける。伏見源中納言ふしみのげんちゆうなごん
師仲卿もろなかのきやう も参りけり。越後中将えちごのちゆうじやう成親なりちか
も参りけり。この二人ににん は、
「主上しゆしやう のわたらせましませば、御方みかた
に参り籠こも りたるばかりなり。させる罪科ざいくわ
なき」 由よし を陳ちん
じ申しければ、上皇に付つ き奉たてまつ
りたる人々は、 「など物具もののぐ
して、軍陣ぐんぢん に打ち立ちたりけるぞ」
と言ひければ、両人、口を開ひら
く事なし。上皇、御書しよ をもつて、この由よし
を六波羅ろくはら へ仰おほ
せられたりければ、左衛門佐さゑもんのすけ
重盛しげもり 、参河守みかわのかみ
頼盛よりもり 、常陸介ひたちのすけ
経盛つねもり 、大将として、その勢ぜい
三百余騎、仁和寺の御所へ参りて、この人々を受け取りて、六波羅へ帰りけり。 |
上皇が仁和寺にいらっしゃると聞きつけ、信頼卿は、
「昔の御縁で、助けていただけるかもしれない」 と思い、ご判断におまかせしますといった態で参った。伏見源中納言師仲卿も参り、越後中将成親も参った。この二人が、
「天皇がいらしたから御方に参り籠もっただけです。たいした罪科を犯しているわけではない」 旨を弁明したので、上皇のお付の人々は、 「どうして、武装して軍陣に加わったのか」
と責めたところ、両人は再び弁明することはなかった。上皇が、このことを書状に記して、六波羅に伝えたところ、左衛門佐重盛、参河守頼盛、常陸介経盛を大将として、その勢三百余騎で仁和寺の御所へ参り、この人々を受け取って六波羅へ帰った。
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同じき二十八日、六波羅へ参る人々は誰々たれたれ
ぞ。大殿おほとの 、関白かんぱく
殿、太政大臣だじやうだいじん
師輔もろすけ 、左大臣さだいじん
伊通これみち 、花山院くわさんのいん
大納言忠雅だいなごんただまさ、土御門中納言つちみかどのちゆなごん
雅通まさみち 、四条三位しでうのさんみ
親隆ちかたか 、大宮三位おほみやのさんみ
隆李たかすえ 、この人々ぞ参られける。 越後中納言成親、六波羅へ召め
し出い だされてけり。島摺しまずり
の直垂ひたたれ に、折烏帽子おりえぼし
引ひ つ立た
てて、六波羅の御厩みまや の前に引き据す
ゑられれぞ居たりける。既すで
に死罪に定まりたりけるを、左衛門佐重盛、 「今度の勲功くんこう
の賞には、越後中将を申し預あづ
かり候はん」 と、たりふし申されたりければ、死罪しざい
をば宥なだ められけり。この成親は、院の御気色けしき
よき人にて、仙洞せんとう の御事は内外ないげ
ともに沙汰さた する仁じん
なりけるが、重盛出仕の時は、毎度まいど
情なさ けをかけて申し承うけたまは
る由よし なりけるが、今度こんど
助たす けられてけり。されば、
「いかにも人は心あるべかりけり」 とぞ申しあへる。 |
同二十八日、六波羅へ参った人々は以下の通り。大殿、関白殿、太政大臣師輔、左大臣伊通、花山院大納言忠雅、土御門中納言雅通、四条三位親隆、大宮三位隆李、この人々が参上した。 越後中将成親は六波羅へ召し出された。島摺りの直垂に、折烏帽子姿で、六波羅の御厩の前に引っ張り出されて座っていた。既に死罪と決まっていたのを、左衛門佐重盛が、
「自分のこの度の勲功の賞として、越後中将の身柄を預かります」 と切に願ったので、死罪は許された。この成親は院の覚えのよい人で、仙洞のことは全てにわたってつかさどるほどの人物であったが、重盛の出仕の度、いつも重盛に話しかけ、重盛の意向についての上皇のお考えをうかがってくれるふうであったが、今度は助けられたというわけである。だから、
「確かに人は思いやりが必要というものだ」 と人々は言いあった。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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