かやうに敵
をspan>射散いち らして、左馬頭、馬より下お
り、毛利冠者が居い たりける所に行きて、手に手を取り組み、
「いかに候ふ、毛利もり 殿、いかに、いかに」
と問ひければ、毛利もりの 六郎、目を開き、義朝の顔をただ一目ひとめ
見て、涙をはらはらと流しけるを最後にて、やがてはかなくなりにけり。義朝、目も当てられず、涙を押おさ
へ、上総介かづさのすけ 八郎に首を取らせ、人には持たせず、手て
づから提ひつさ げて、馬に乗りて、落ち行きけるが、
「人の知らせじ」 と、顔の皮かは
を削けづ り、石を結ゆ
ひ付つ けて、谷川の淵ふち
に入れてけり。愛子あいし の坊門ぼうもん
の姫ひめ を見てだにも、悪わろ
びれじと、涙を包みしに、この人に別わか
れては、人目をも憚はばか らず、
「八幡殿はちまんどの の御子の余波なごり
には、この人ばかりこそありつるものを」 とて、涙を流しければ、郎等らうどう
ども、袖そで を濡ぬ
らさぬはなかりけり。 |
このように敵を射散らして、左馬頭は馬から下り、毛利冠者が居た所に行き、手を取って握りしめ、
「具合はどうか、毛利殿。どうか、どうか」 と聞いたが、毛利六郎は目を開き義朝の顔をただ一目見て、涙をはらはらと流したのが最後で、すぐ死んでしまった。義朝は見るに忍びず、涙を押えて、上総介八郎に首を切らせて、他人には渡さず、自分で持って馬に乗り、また東国を目指したが、この首が誰と知られないよう顔の皮を削り、石を結びつけて、谷川の淵に沈めた。かわいい娘、坊門の姫を見ても見苦しくないように涙を見せなかったのに、毛利殿との別れに際しては、人目も気にせず、
「八幡殿の御子息としては、この方しか生き残っていなかったのに」 と涙を流したので、郎等も皆もらい泣きした。 |
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「北陸道ほくろくだう
へ赴おもむ かば、この事聞きこ
えて、京都きやうと へ馳は
せ上のぼ る勢ぜい
、多からん。誰たれ とも知らぬ雑兵ざふひやう
に会ひて、犬死いぬじに せん事、口惜くちを
しかるべし。これより東坂本ひがしさかもと
へ懸か からば、たとひ人怪あや
しむとも、洛中らくちゆう の騒動さうどう
により馳は せ上のぼ
るの由よし を言はば、子細あらじ」
と評定ひやうぢやう して、東坂本へ通りければ、止とど
むる者なかりけり。志賀しが 、唐崎からさき
、大津おほつ の浦うら
を過ぎて行きけるが、瀬田せた
は橋もなければ、舟ふね にてぞ渡りける。鈴鹿すずか
、不破ふは の関せき
は、平氏へいじ に志こころざし
ある軍勢等ぐんぜいら 固かた
めたりと聞えけれども、海道かいだう
をぞ下くだ りける。 後藤兵衛ごとうびやうゑ
実基さねもと は、大だい
の男おとこ の太ふと
り極きは めたるが、馬は疲つか
れぬ、徒立かちだち になりて適かな
ふべくも見えず。左馬頭、これを見て、 「実基は留とど
まれ」 と宣のたま ひければ、猶なほ
慕した はしげにて、行きも適かな
はず、終つひ に留まりけり。 この合戦を聞き及び、馳は
せ上のぼ る兵つはもの
ども、怪あや しげに目め
を懸けければ、 「道みち を行きては悪あ
しかるべし」 とて、三上みかみ
の岳たけ 、鏡山かがみやま
の麓ふもと に懸かり、木深こぶか
き道を分わ け、夜に紛まぎ
れて、伊吹いぶき の岳だけ
、麓の辺へん に着つ
きにけり。 |
「北陸道へ向かうと、京の騒動を聞きつけて、京都へ馳せ上ろうとする軍勢も多いことだろう。どこの誰とも分からないような雑兵どもと戦って、犬死しようものなら口惜しいこと。ここから東坂本へ向かい、たとい怪しまれることがあっても、洛中の騒動のため馳せ上ろうとしていると言えば、問題なかろう」
と決めて、東坂本を通ったが、誰も止めようとする者はいない。志賀、唐崎、大津の浦も通り過ぎ、瀬田の川には橋もないので、舟で渡った。鈴鹿、不破の関は平氏に味方する軍勢が警固しているとのことであったが、ともかく東海道を下ることにした。 後藤兵衛実基は、大男で大そう太っていたが、馬は疲れてしまうし、といって徒歩では行軍は無理と見えた。左馬頭はこの様子を見て、
「実基はこのに留まれ」 と命じらが、それでもなお後を追いたそうな様子、しかし徒歩で従うわけにもゆかず、終にこの地に留まった。 京の合戦を聞きつけて馳せ上ろうとする諸国の兵どもと出会う度、不審そうに見られるので、正規の道を行くのは具合が悪いということで、三上山、鏡山の麓を通りかかり、木深い道を分け、夜の闇に紛れて、伊吹山の麓の辺りに着いた。 |
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『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館 ヨ
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