このうち、義朝の伯父、陸奥六郎義高は相模の毛利うぃ知行していたので毛利冠者とも言うが、この人、馬が疲れて少し一行から遅れたところを、法師等が取り囲んで、散々に矢を射かけた。そこで、義高は太刀を振ってしばし戦ったが、山裾の難所で、馬を駆けさせるような所もない。甲の内を射当てられて気分が悪くなったので、馬から下りて木の根に寄りかかってひと休みしていた。比叡山の大衆の中に、長七尺ほどの法師で、黒皮縅の大腹巻に、同じ毛の袖を付けたのに左右の小手を通して、長刀を持つ者が、義高を討とうと近寄って来たところを、上総八郎が引き返して来て、馬から下りて、その法師と刀の打合いとなった。介八郎の下人が左馬頭に追い着き、
「毛利殿が重傷を負い、敵にその首を取らせてはならじと、介八郎殿が引き返しなさったが、それも今はもう討たれなさったかも知れません」 と告げたので、左馬頭は聞くやいなた、引き返して、わめきながら駆ける。平山武者所や長井斉藤別当も引き返した。左馬頭は矢を取り出して番え、
「憎い奴めが。一人残らず射殺してやるぞ」 と大音声をあげて脅したので、たまらず、山僧等は方々へ逃げ散った。なかでも、毛利冠者を討とうと近付いて来た法師が山へ逃げのぼろうとしてところを、義朝が強く引いて放った矢は、その法師の腹巻の押付の板をつっと射抜き、上方胸板のはずれから矢先が五、六寸ほども抜け出ていた。うっぷしざまにがばと倒れて、そのまま死んだ。 |