〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (中)

2012/08/30 (木) 義 朝 敗 北 の 事 (四)

実盛がたばかり にて、事故ことゆえ なく、八瀬やせ 河原がはらほと りを北へ向きて落ち行く程に、何者やらん、後ろに、 「や」 と言ふを、義朝見返りたれば、今は何方いづかた へ行きぬらんと思ひつる信頼卿のぶよりきやう 、 「いかにや、東国のかた へ行きたまふか。同じくは、われ をも れて でたまへ」 とて、打ち寄りたり。義朝、あまりのにく さに、はたとにら み、 「あれ程の大臆病者の者、かかる大事を思ひ立ちける事よ」 とて、持ちたるむち を取りなほ し、左の頬先ほほさき二打ふたう三打みう ちぞ打たれたりける。乳母子めのとご式部大夫しきぶのたいふ 資能すけよし 、 「いかにかやうに恥をば与へ申さるるぞ」 ととが めければ、義朝、いか りて、 「あのおとこ 、取つておろ せ。口裂くちさ け。者ども」 と下知げぢ すれば、鎌田かまだ 兵衛びやうゑ 、 「時にこそより候へ。敵も今は近付ちかづ き候ふらん。 びさせたまへ」 とすす むれば、 「 にも」 とや思ひけん、万事ばんじ を捨てて せ延びびけり。信頼卿のぶよりきやう は、つら たれたるも恥づかしく、何方いづくたの むとしもなけれども、北山きたやまかた へ落ち行きけり。

実盛の作戦が図に当たり、無事、八瀬河原の辺を北に向かって進んでいたところ、何者であろうか、後ろで、 「や」 と呼びかける者がいる。義朝が振り返って見たところ、それは、今頃どこらを逃げているのだろうかと思っていた信頼卿で、 「やあ、東国の方へ行きなさるのか。ついでに自分も連れて行ってくれまいか」 と言い寄って来た。義朝はあまりの憎らしさに、きっと睨みつけ、 「あれ程の大臆病の者が、こんな大事をよくも思い立ったことよ」 と言い捨てて、手に持っていた鞭を取り直し、信頼の左の頬先を二打ち、三打ち打った。乳母子の式部大夫資能が、 「どうしてこんなに恥をかかせるのか」 と咎めたので、義朝は怒り、 「資能めを馬から引きずり下ろせ。口を裂け、者ども」 と命じたが、鎌田兵衛が、 「時によります。今は敵も近付いていることでもあり、少しでも早く逃げ延びねばなりません」 と諭したところ、義朝も確かにそうだと思ったのだろう。この騒ぎはそのままにして立ち去った。信頼卿は顔を鞭打たれたのも恥ずかしく、どこを頼りにするという当てもないまま、北山の方に落ち延びた。

三郎先生せんじやう 、十郎くらんど 人、義朝に申しけるは、 「いかにもして東国へ御下向げかう 候ひて、八箇国のつはもの どもみな 譜代ふだい御家人ごけにん にて候へば、彼等かれらさき として、都へのぼ らせたまはん事、何の子細しさい か候ふべき。我等われら も、山林に身をかく して待ち奉り、先途せんど の御大事に、などか はで候ふべき。御名残なごり こそ しく候へ」 とて、泣く泣くいとま ひ、大原山おほはらやまかた へぞ落ち行きける。
左馬頭さまのかみ も、この人々とど まりしかば、心細くなりて、竜華越りゆげごえ かりけるところに、横川法師よこがわほふし 二、三百人、 「落人おちうど とど めん」 とて、道を切りふさ ぎ、逆茂木さかもぎ き、高き所に石弓いしゆみ 張りて、待ち懸けたり。 「八瀬やせ をこそとかくして通りたる。ここをば、また、いかがせんずる」 と思ふところに、後藤ごとう 兵衛尉びやうえのじよう 、 「ここをば、実基さねもと 、命を捨てて通したてまつ らん」 とて、真先まさき に進み、 「足軽あしがる ども、寄れや」 とて、逆茂木ども けさせ、をめ いて駆けければ、左馬頭以下いげつはもの ども、一騎も残らず通りけり。石弓いしゆみ はづ けたりけれども、一人いちにん あた らず。
三郎先生と十郎蔵人は義朝に、 「何としてでも無事に東国に下向なさって東八箇国の兵どもは皆譜代の御家人なのだから、彼等を先に立てて、再び都へ攻め上りなさるのが最善です。 我等もどこか山林にでも隠れてお待ち申しあげ、なんとか合戦でお役に立ちたいものです。名残惜しいことですが」 と挨拶して、泣く泣く別れを告げて、大原山の方へ向かった。
左馬頭もこの人々と別れて心細くなった。竜華越にさしかかったところ、横川法師が二、三百人、 「落人の行く手をはばもう」 として、道路を切り塞ぎ、逆茂木を引いて、高いところでは弓石を張って待ち構えていた。 「八瀬はともかく通り抜ける事が出来た。ここは、また、どうしたものか」 と皆々思案していたところに、後藤兵衛尉が、 「ここは、私、実基が命を捨ててお通し出来るようにしましょう」 と言って真っ先に進み出て、 「足軽ども、来い」 と命じて、坂茂木を取り除けさせ、大声をあげて馬を走らせたので、左馬頭以下の兵どもも後に続き、全員通り抜けることが出来た。石弓を飛ばしかけたが、一人も当たらない。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
Next