〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (中)

2012/08/29 (水) 六 波 羅 合 戦 の 事 (三)

かかりけるところに、伊藤武者いとうむしや 景綱かげつな筑後守ちくごのかみ 家貞いえさだ 五百騎ばかり、河原の東のかた を、のぼ りへ向けてあゆ ませりけるを見て、鎌田兵衛かまだびやうえ左馬頭さまのかみ に申すやう、 「あれ御覧ごらん ざうら へ。てき こそ我らを取り めんと、せいまは し候へ。ここをば退しりぞ かせたまひて、事のやうを御覧ぜられ候へかし」 とぞいさ めける。義朝よしとも 、 「引かば何処いづく までのが るべきぞ。討死うちじ によりほかは、べち あるべからず」 とて、やがて駆けんとしければ、鎌田、馬より り、くくつばみ に取り付き、 「ぞん ずるところありて申し候ふものを。御当家は、弓箭ゆみや りては神にもつう じたまへり。 『やうこそあるらめ』 と天下てんか の人申し合ひて候ふに、平家の目の前に、御かばねとど めて、馬のひづめ てさせたまはん事、口惜くちを しかるべし。まつた く、御命を惜しむためにはあらず。てき幾万騎いくまんき 候ふとも、駆け よき合戦かせん なれば、打ち払ひて、大原おおはら静原しづはら の山の中へ せ入りても、御自害じがい 候ふべし。もし、また、 び得ぬべくは北陸道ほくりくだう に懸かりて、東国へくだ らせたまひなば、東八箇国とうはつかこく に、たれ御家人ごけにん ならぬ人候ふ。世を取らんとする大将だいしやう左右さう なく御命を捨てられん事、後代こうたいそし りあるべし」 と申せども、なほ けんとはやりけるを、朗等らうどう 幾多あまたむながい腹帯がるび に取り付きて、西へ向けて引きもて行く。

この時、伊藤武者景綱や筑後守家貞五百騎ほどが、河原の東の方を北へ向かっているのを鎌田兵衛が見付けて、左馬頭に進言して、 「あれを御覧なさい。敵が我らを取り囲もうと企んで、軍勢を分けているようです。ここを退いて状況を判断なさい」 と諫めた。義朝は、 「ここを退くといったところで、どこまで遁れることが出来ようか。討死よりほか、手立てはあるまい」 と答え、直ちに馬を進めようとしたので、鎌田は馬から飛び下り、義朝の馬の轡に取り付いて、 「考えがあるから申しているのです。御当家源氏は武力において神にも通ずる実力があるのです。 『この度の決起にはよくよくのわけがあるはず』 と、世間の人も言っているというのに、平家の軍勢の目の前に敗残の屍を留めて置いて、あげくは敵方の軍馬の蹄に踏みつけにされるなど残念なことです。命を惜しむなどということではありません。たとい、敵軍幾万騎あろうとも、馬を駆けさせるによき戦場での合戦とあらば、敵を追い払い、大原や静原の山中へ馳せ入ってでも御自害は出来るというものです。また、幸い逃げ延びることが出来たとして、北陸道を通り、東国へ下りなさったなら、東八箇国、当家に縁ある武士はたくさん居るというものです。これから天下を取ろうとする大将が、そのように簡単に御命を捨てられるということは、後代非難されるというものです」 と諫めたが、義朝はそれでも敵陣目がけて馬を駆けさせようとするのを、大勢の朗等が、義朝の馬の鞦や腹帯に取りすがって、とりあえず一同西に向かって退却した。

『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
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