〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-W』 〜 〜
平 治 物 語 (中)

2012/08/28 (火) 六 波 羅 合 戦 の 事 (一)

悪源太あくげんた 、川 せ渡り、父と一手ひとて になりて、六波羅ろくはら へ向きてぞ けたりける。ここを限りと見えければ、伴なふともがら 誰々たれたれ ぞ。悪源太義平よしひら中宮大夫進ちゅうぐうのだいぶのしん兵衛佐ひやうゑのすけ 、三郎先生せんじやう蔵人義盛くらんどよしもり陸奥みちのくの 六郎、平賀ひらがの 四郎、鎌田兵衛かまだびやうゑ後藤兵衛ごとうびやうゑ子息しそく 新兵衛しんびやうゑ三浦荒二郎みうらのあらじらう 、、上総介かづさのすけ 八郎、佐々木ささきの 三郎、平山武者所ひらやまのむしやどころ長井斉藤別当実盛ながゐのべつたうさねもりをはじめとして、廿余騎、六波羅へ押し寄せ、一二の掻楯かいだて 打ち破りて、をめ いて駆け入り、散々さんざん に戦ひけり。

悪源太は賀茂川を馳せ渡り、父の軍勢と合流して、六波羅に向かって馬を走らせた。これが最後の戦いとばかり、伴う軍勢は以下の通り。悪源太義平、中宮大夫進、兵衛佐、三郎先生、蔵人義盛、陸奥六郎、平賀四郎、鎌田兵衛、後藤兵衛、子息新兵衛、三浦荒二郎、方切小八郎大夫、上総介八郎、佐々木三郎、平山武者所、長井斉藤別当実盛 をはじめとして総計二十余騎、六波羅に押し寄せて、前列、次列の掻楯を打ち破って、大声をあげて駆け入り、それはもう勇ましい戦いぶりであった。

大弐だいに 清盛きよもり 、北のたい 、西の妻戸つまど の間にいくさ 下知げぢ して たりけるが、妻戸のとびら に、かたき の射る矢、雨の降るごとくに当たりければ、大弐清盛、大きにいか りて、 「恥あるさぶらひ がなければこそ、これまで敵を近付ちかづ くれ。清盛駆けん」 とて、かぶと を締め、妻戸の よりつと で、庭に立てたる馬をえんきは へ引き寄せ、ひたと乗る。清盛その日の装束しやうぞく には、飾磨しかまかち直垂ひたたれ に、黒糸縅くろいとおどしよろい塗篦ぬりの黒保呂くろぼろ ぎたる矢の、十八 したるを ふままに、塗籠籐ぬりごめどう の弓をぞ持ちたりける。黒塗りの太刀たち に、くま の皮の頬貫つらぬき をぞ きたりける。黒き馬の七、八寸ばかりなるが太うたくましきに、黒鞍くろくら いてぞ乗りたりける。した よりうえ まで大人おとな しやかに、真つ黒にぞ装束しやうぞ いたる。かぶと ばかりは、しろがね をもつて大鍬形おほくはがた ちたりければ、しろかがや き、人にかは り、あつぱれな大将だいしやう やとぞ見えし。腹巻はらまき に、太刀たち長刀なぎなた れたる徒武者かちむしや 三十余人、馬の前後左右さう りて、西の門より でけり。嫡子ちやくし 重盛しげもり 、次男基盛もともり 、三男宗盛むねもり の一門三十余騎、大将軍をば矢面やおもて てじと、われ きにわれ きにとぞ駆けたりける。
大弐清盛は、北の対屋の西の妻戸で軍の指揮をとっていたが、妻戸の扉に、敵の射る矢がまるで雨の降りかかりように当るので、たいそう怒り、 「わが陣営には勇敢な武士がいないと見えて、ここまで敵が近付くのだ。清盛が相手になってやろう」 とばかり、甲の緒を締め、妻戸の間からさっと飛び出し、庭に用意している馬を縁近く引き寄せ、さっと乗った。清盛のその日の装束は、飾磨の褐の直垂に、黒糸縅の鎧、塗篦に黒保呂矧いだ矢を十八本胡?やなぐい に差して背負い、塗籠籐の弓を手に持っていた。黒漆りの太刀、そして熊皮の頬貫をはいていた。黒い馬で背丈四尺七、八寸もあろうかという肥えたたくましいのに、黒鞍置いて乗っていた。下から上まで全身黒ずくめの装束で風格があった。甲だけは白銀で大鍬形を打ってあるので、白く輝き、とりわけ目立って、ああ大将よとすぐ分かる。腹巻姿で、太刀、長刀を鞘からはずして振りかざした徒武者三十余人が清盛の乗った馬の前後左右を警固して、西の門から駆け出た。嫡子重盛、次男基盛、三男宗盛以下の一門三十余騎も、大将軍清盛を敵の矢面に立たせまいと、われ先に馬を走らせた。
『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』 発行所:小学館  ヨ リ
Next