〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-V』 〜 〜
恋 草 か ら げ し 八 百 屋 物 語

2012/07/21 (土) 様 子 あ っ て の にはか ばう (二)

その後、長老ちやうらう へかくと申せば、驚かせ給ひて、 「その身はねんごろ契約けいやく の人、わりなく愚僧ぐそうく を頼まれあづか り置きしに、その人、今は松前にまか りて、この秋の頃は必ずここにまか るの由、くれぐれこの程も申し越されしに、それよりうちに申し事あらば、さしあたっての迷惑、われ ぞかし。兄分あにぶん 帰られての上に、その身は、いかやうなりともなりぬべき事こそあれ」 と、色々いろいろ 異見いけん あそばしければ、日頃の御恩思ひあは せて、 「何かおほ せはもれじ」 と、御まう し上げしに、なほ心ともなく思召おぼしめ されて、刃物を取りて、あまたのばん を添へられしに、是非ぜひ なく、常なる部屋に入りて、人々に語りしは、 「さてもさても、我が身ながら世上せじやうそし りも無念なり。いまだ若衆わかしゆ を立てし身の、よしなき人のうきなさけ に、もだしがたくて、あまつさへその人の難儀、この身の悲しさ、衆道しゆだう の神も仏もわれ を見捨て給ひし」 と、感涙かんるい を流し、 「殊更ことさら兄分あにぶん の人帰られての首尾しゆび 、身の立つべきにあらず、それより内に、最後さいご 急ぎたし。されども、舌食ひ切り、首しめるなど、世の聞えも手ぬるし。なさけ一腰ひとこし 貸し給へ。なにながらへて甲斐かひ なし」 と、なみだ に語るにぞ、座中ざちゆう 袖をしぼりて深く哀れみける。

その後、長老様へ事情を申し上げたところ、驚かれて、 「そなたの身jは、そなたが懇ろに契約した兄分の方が、特別に愚僧を頼まれたので預かっているのだが、その方は、今は松前まつまえ に行っておられ、この秋の頃には必ずここに来ると、かえすがえすこの間も連絡してこられたのに、それ以前に何か問題が起こったら、さしずめ迷惑するのは、この私である。兄分の方が帰って来られた上で、どのようにも身の振り方をつけたがよかろう」 と、いろいろ意見されたので、平素のご恩を考え合わせ、 「何事も仰せにたが うような事はいたしません」 と、そのお言葉を承知したが、長老様はそれでもまだ不安に思われて、刃物を取り上げ、大勢の番を付けられたので、しかたなく、ふだんの居間に入って、人々に語るには、 「さてもさても、自分でしでかした事ながら、世間からとやかく謗られるのも残念です。まだ若衆の道を立てている身でありながら、ふとした人のせつない情けにほだされて、そればかりか、それがその人の難儀になったこの身のつらさ、衆道の神も仏も、この私をお見捨てなされたのでしょうか」 と、感きわまって涙を流し、 「ことに、兄分の人の帰られての成り行きを考えてみると、まったく面目の立ちようがありません。それより前に早く命を絶ちたいのです。けれども、舌を食い切ったり、首をくくったりしては世間の聞えも生ぬるく男らしくありません。どうかお情けに刀を一本お貸しください。生きながらえて何のかいがありましょう」 と、涙ながらに語るので、一座の人々もそで をしぼって、深くあわれんだのであった。

『井原西鶴集 一』 佼注・訳者;暉峻 康隆・相賀 徹夫 発行所:小学館 ヨリ
Next