〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-V』 〜 〜
恋 草 か ら げ し 八 百 屋 物 語

2012/07/21 (土) 様 子 あ っ て の にはか ばう (一)

命程頼み少なくて、又、つれなき物はなし。中々なかなか 死ぬれば、恨みも恋もなかりしに、百ヵ日にあた る日、枕始めてあが り、杖竹つゑだけ便たよ りに、寺中静かに初立うひだ ちしけるに、卒塔婆の新しきに心を付けて見しに、その人の名に驚きて、 「さりとては、知らぬ事ながら、人はそれとはいはじ。おくれたるやうにとり 沙汰ざた も口惜し」 と、腰の物に手を掛けしに、法師取りつき、さまざまとど めて、とても死すべき命ならば、年月語りし人に暇乞いとまごひ をもして、長老様ちやうらうさま にもそのことわ りを立て、最後さいごきは め給へかし。子細しさい は、そなたの兄弟契約けいやく御方おんかた より、当寺へ預け置き給へば、その御手前への難儀なんぎ 、かれこれ思召おぼしめあは させられ、この上ながら憂名うきな の立たざるやうに」 と、いさ めしに、このことわ至極しごく して、自害思ひとどまりて、とかくは、世にながらへる心ざしにはあたず。

人の命ほど頼み少なく、また、ままにならぬものはない。病気だった吉三郎はいっそ死んでしまえば恨みも恋もなかったであろうに、お七の百ヶ日に当る日、初めて床上げして、つえ を頼りに、寺の境内けいだい を静かに歩いてみたところ、卒塔婆の新しいのがあるので注意して見ると、お七の名が書いてあったのに驚いて、 「そんなことになっていたとは、知らぬことではあったが、人はそうは言うまい。気おくれして死ねなかったようにうわさ されるのも残念だ」 と、腰の刀に手をかけたのを、法師たちが取りすがって、さまざまにとどめ、 「どうしても死なねばならぬ命なら、長い年月ねんご ろにされたお方にいとま いをなさって、長老様にもわけを話して了解を得た上で、最期をとげられるがよい。というのは、あなたは兄弟の契約をされた方が、この寺へお預けになったのですから、その方の手前、迷惑いたします。あれこれよく考え合わせられ、この上さらに悪い評判が立たぬように」 といさ めたところ、この道理を納得して、自害は思いとどまったけれども、とにかくこの世にながらえるつもりではなかった。

『井原西鶴集 一』 佼注・訳者;暉峻 康隆・相賀 徹夫 発行所:小学館 ヨリ
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