〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-V』 〜 〜
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2012/07/20 (金) 雪 の 夜 の なさけ 宿やど (三)

やうやう下女と手を組みて車にかき乗せて、常の寝間ねま に入れまゐらせて、手の続く程はさすりて、幾薬いくくすり を与へ、少し笑ひ顔うれしく、 「盃事さかづきごと して、今宵こよひ は心にある程を語りつくしなん」 と、喜ぶ所へ、親父おやじ 帰らせ給ふにぞ、重ねて憂目うきめ にあひぬ。
衣桁いかうかげ にかくして、さらぬ有様ありさま にて、 「いよいよ、おはつ様は親子とも御まめか」 といへば、親父おやじ 喜びて、 「ひとりのめひ なれば、とやかく気遣きづか ひせしに、重荷おろした」 と、機嫌きげん よく、産衣うぶぎ の模様せんさく、 「よろづ祝ひて鶴亀松竹の摺箔すりはく は」 と申されけるに、 「遅からぬ御事おんこと 、明日御心静かに」 と、下女も口々に申せば、 「いやいや、かようの事は早きこそよけれ」 と、木枕きまくら 、鼻紙をたたみかけて、ひな形を切らるるこそうたてけれ。
やうやうその程過ぎて、色々いろいろ たらして寝せまして、語りたき事ながら、ふすま 障子しやうじ 一重ひとへ なれば、漏れ行く事恐ろしく、ともしび の影にすずり かみ 置きて、心の程をたがひ に書きて見せたり見たり、これを思へば鴛鴦をしふすま とやいふべし。夜もすがら書きくどきて、明方あけがた の別れ、又もなき恋があまりて、さりとは物憂き世や。

ようやく下女と手を組んで手車てぐるま にかき乗せ、ちゃんとした寝間にお入れして、手の力の続くかぎりさすって、いろいろの薬を飲ませ、少し笑顔が出るようになったのでうれしく、 「盃事さかずきごと して、今夜は心の中にあるかぎりをすっかりお話ししてしまいましょう」 と喜んでいるところに、親父おやじ が帰って来られたので、再びつらい目にあうことになった。
吉三郎を衣桁いこう の陰に隠して、何くわぬ様子で、 「ほんとに、おはつ様は親子ともご無事でしょうか」 と言うと、親父は喜んで、 「一人のめい のことだから、あれこれと心配したけれど、これで重荷をおろした」 と、上機嫌で、産衣うぶぎ の模様のせんさくを始めた。 「万事めでたい物尽くしで、鶴亀松竹の摺箔すりはく としてはどうだろう」 と言われるので、 「そんなにお急ぎになられなくとも、明日ゆっくり落ち着いてお考えになったらよろしゅうございましょう」 と、下女ともども口をそろえて言うと、 「いやいや、このようなことは早い方がよいのだ」 と、鼻紙をたたんで木枕にあてがい、ひな型を切られるのにはうんざりしてしまった。
ようやくその産衣騒ぎも過ぎて、いろいろとだましすかして親父を寝かしつけ、さてその後、積もる思いも話したいとは思うものの、ふすまく 一重の隔てであるから、話し声がもれるのが恐ろしく、燈火の影にすずりく と紙とを措いて、心の中を互いに書いて見せたり見たりした。考えてみると、これこそ鴛鴦おしふすま ならぬおしふすま と言うべきであろうか。一晩中書き口説くど いて、明け方に別れたが、そんなことではこの上ない恋の思いを語りつくすことが出来なかった。さてもつらいこの憂世うきよ である。

『井原西鶴集 一』 佼注・訳者;暉峻 康隆・相賀 徹夫 発行所:小学館 ヨリ
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