〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-V』 〜 〜
恋 草 か ら げ し 八 百 屋 物 語

2012/07/20 (金) 雪 の 夜 の なさけ 宿やど (二)

八つの鐘の鳴る時、表の戸叩いて、女と男の声して、 「申し、うば 様、ただ今喜びあそばしましたが、しかも若子わこ 様にて旦那様の御機嫌きげん 」 としきりに呼ばはる。家内いへうち起騒おきさわ いで、 「それはうれしや」 と、寝所ねどころ よりすぐ に夫婦連れ立ち、出さまに、海人草まくり甘草かんざう を取り持ちて、かたがた しの草履ざうり をはき、お七にかど の戸をしめさせ、急ぐ心ばかりに行かれし。

八つ (午前二時) の鐘が鳴る時、表の戸を叩いて、女と男の声で、 「もうし、おば様、たった今、ご出産なさいましたが、しかも男のお子様で、旦那だんな 様がたいへんご機嫌きげん でございます」 と、しきりに呼ばわった。家じゅうの者が皆起き騒いで、 「それはうれしや」 と、寝所からすぐに夫婦は連れ立って、出て行きがけに、海人草まくり甘草かんそう を手に持って、片ちんばの草履ぞうり をはき、お七に戸を閉めさせ、気ばかりあせ って出て行かれた。

お七、戸をしめて帰りさまに、暮方くれがた 里の子思ひやりて、下女に、 「その手燭てしよく 待て」 とて、面影おもかげ を見しに、豊に して、いとどあはれのまさ りける。 「心よくありしを、そのまま置かせ給へ」 と下女のいへるを、聞かぬかほ して近く寄れば、肌につけし兵部卿ひやうぶきやうかを り、何とやらゆかしくて、笠を取除とりの け見れば、やごとなき脇顔のしめやかに、びん もそそけざりしを、しばし見とれて、その人の年頃に思ひいたして、袖に手をさし入れて見るに、浅黄あさぎ 羽二重はぶたへ の下着、 「これは」 と、心を めしに、吉三郎殿なり。人の聞くをもかまはず、 「こりや何としてかかる御姿ぞ」 と、しがみ付きて嘆きぬ。
吉三郎もおもてあは せ、物えいはざる事しばらくありて、 「われ かく姿をかへて、せめては、君をかりそめに見る事願ひ、宵の憂き思ひ思召おぼしめ しやられよ」 と、はじめよりの事どもを、つどつどに語りければ、 「とかくは、これへ御入りありて、その御恨みも聞きまゐらせん」 と、手を引きまゐらすれども、宵よりの身の痛み、是非ぜひ もなく、あはれなり。

お七は戸を閉めて帰りがけに、暮れ方の里の子のこと思いやって、下女に、 「その手燭てしょく 、ちょっとこちらへ」 と言って、その姿を見たところ、ゆっくりと寝込んでいる様子が、いっそうかわいそうに思われた。 「気持ちよく眠っているものを、そのままにしてお置きなさいませ」 と、下女が言うのを聞こえぬふりをして近寄ると、はだ につけた兵部卿ひょうぶきょう の香りがして、何となく心をひかれ、かさ を取りのけてみると、上品な横顔はしっとりともの静かに、びん の毛も乱れていないのを、しばらく見とれて、恋しいその人と似た年頃であると思い合わせ、そで に手をさし入れてみたところ、浅黄あさぎ 羽二重はぶたえ の下着を着ている。 「これは」 と気をつけて見直すと、それが吉三郎殿であった。人が聞くのもかまわずに、 「こりゃ、どうしてこのようなお姿」 と、しがみついて泣き出した。
吉三郎も顔を見合わせ、しばらく物も言えなかったが、 「私がこんなに姿を変えて来たのも、せめてあなたを一目でも見たいと願ってのことです。よい からのつらい思いを察してください」 と、初めからのさまざまの事を、いちいち話したので、 「とにかく、こちらへお入りくださった上で、そのお恨みもお聞きしましょう」 と、手を引いてさしあげたけれども、宵からの体の痛みはどうしようもなく、まことに哀れなことであった。

『井原西鶴集 一』 佼注・訳者;暉峻 康隆・相賀 徹夫 発行所:小学館 ヨリ
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