油断のならぬ世の中に、殊更
見せまじき物は、道中の肌付金はだつけがね
、酒の酔ゑひ に脇指わきざし
、娘の際きは に捨坊主すてぼうず
と、御寺みてら を立たち
帰りて、その後は、きびしく改めて恋をさきける。されども、下女が情なさけ
にして、文は数通かずかよ はせて、心の程は互たがひ
に知らせける。 ある夕ゆふべ
、板橋いたばし 近き里の子と見えて、松露しようろ
・土筆つくつくし を手籠てかご
に入れて、世を渡る業わざ とて売り来れり。お七親の方かた
に買ひとめける。その暮は、春ながら雪降り止まずして、里まで帰る事を歎きぬ。亭主ていしゆ
あはれみて、何心なく、 「つい庭の片角かたすみ
にありて、夜明けなば帰れ」 といはれしをうれしく、牛蒡ごぼう
・大根だいこん の莚むしろ
片寄せ、竹の小笠をがさ に面おもて
をかくし、腰蓑こしみの 身にまとひ、一夜いちや
をしのぎける。 |
油断のならないこの世の中で、ことに見せてならぬものは、旅行の時の肌はだ
に付けた金、酒に酔った人に脇指わきざし
、娘のそばに捨て坊主だと、吉祥寺から引き上げてきた後は、厳重に監督して、二人の恋を割いたのであった。けれども、下女の情けで、恋文は何度も遣り取りして、心のうちは互いに知らせ合っていた。 ある日の夕暮れ、板橋いたばし
在住の里の子と見えて、松露しょうろ
・土筆つくし を手籠に入れ、これを渡世の業に売りに来たのを、お七の親の家で買い取った。その夕暮れは、春というのに雪が降りやまず、その子は村まで帰ることが出来ぬと嘆いていた。八百屋の亭主はかわいそうに思い、何気なく
「ちょっと土間の片隅かたすみ
にでも寝て、夜が明けたら帰れ」 と言われたので嬉うれ
しく、ごぼう・・・ や大根を並べた莚むしろ
を片寄せ、たけのこ笠がさ で顔を隠し、腰蓑みの
を身にまとって、一夜をしのぎ明かすことになった。 |
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嵐、枕に通ひ、土間つちま
冷え上あが りけるにぞ、大方おほかた
は命もあやふかりき。次第しだい
に息も切れ、眼まなこ もくらみし時、お七声して、
「先程さきほど の里の子あはれや、せめて湯なりとも呑ませよ」
とありしに、飯炊めした きの梅が、下しも
の茶碗にくみて、久七にさし出しければ、男請うけ
取りてこれを与へける。 「忝かたじけな
き御心入こころい れ」 といへば、暗紛くらまぎ
れに、前髪をなぶりて、 「我われ
も江戸に置いたらば、念者ねんじや
のある時分ぢゃが、痛いた はしや」
といふ。 「いかにも浅ましく育ちまして、田をすく馬の口を取り、真柴ましば
刈るより外ほか の事を存じませぬ」
といへば、足を弄ひら ひて、
「奇特きどく に皸あかがり
を切らさぬよ、これなら口をすこし」 と、口を寄せけるに、この悲しさ、切せつ
なさ、歯を食ひしめて泪なみだ
こぼしけるに、久七分別ふんべつ
して、 「いやいや根深ねぶか
・にんにく食ひし口中も知れず」 と、止や
めける事のうれし。 その後のち
、寝時ねどき になりて、下々したじた
は打付梯子うちつけはしご を登り、二階に燈火ともしび
影うすく、主あるじ は、戸棚の錠前ぢやうまえ
に心を付くれば、内儀ないぎ は、火の用心よくよくいひ付けて、なほ娘に気遣きづか
ひせられ、中戸なかど さしかためられしは、恋路綱つな
切き れてういたれし。 |
夜風が枕元まくらもと
に吹き込み、土間がすっかり冷えあがったので、ほとんど命も危ういくらいであった。しだいに息が切れ、目もくらんできた時、お七の声がして、 「先ほどの里の子はかわいそうに、せめてお湯でも飲ませなさい」
と言われたので、飯炊めした きの梅が奉公人用の茶碗ちゃわん
に汲んで、下男の久七に差し出すと、久七はこれを受け取って里の子に与えた。 「ありがたいご親切」 と礼を言うと、久七は暗闇くらやみ
にまぎれて里の子の前髪をいじりまわして、 「お前も江戸に奉公に出ていたら、兄分のある年頃じゃが、かわいそうに」 と言う。 「ほんに卑しく育ちまして、田をすく馬の口を取り、柴しば
を刈か るわざのほかは存じません」
と言うと、今度は足をいじってみて、 「感心にあかぎれ・・・・
も切らしていないな。これなら口を少し」 と、口を近寄せてきて接吻せっぷん
しようとする。この悲しさ、つらさ、歯をくいしばって涙をこぼしていると、久七は考え直して、 「いやいや、葱ねぎ
やにんにく・・・・ を食った臭い口かもしれぬぞ」
と、やめてしまったのはうれしかった。 その後、寝る時刻になって、奉公人たちは打付け梯子はしご
を登って、二階の燈火の影も暗く、主人は戸棚とだな
の錠前じょうまえ に気をつけると、内儀は火の用心をよくよく言い渡し、またその上に娘のことを心配して、店と奥との間の中戸を堅く閉じてしまわれたので、恋の通い路の手がかりが切れ、情けないことであった。
| 『井原西鶴集 一』 佼注・訳者;暉峻
康隆・相賀 徹夫 発行所:小学館 ヨリ |
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