〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-V』 〜 〜
恋 草 か ら げ し 八 百 屋 物 語

2012/07/20 (金) 雪 の 夜 の なさけ 宿やど (一)

油断のならぬ世の中に、殊更ことさら 見せまじき物は、道中の肌付金はだつけがね 、酒のゑひ脇指わきざし 、娘のきは捨坊主すてぼうず と、御寺みてらたち 帰りて、その後は、きびしく改めて恋をさきける。されども、下女がなさけ にして、文は数通かずかよ はせて、心の程はたがひ に知らせける。
あるゆふべ板橋いたばし 近き里の子と見えて、松露しようろ土筆つくつくし手籠てかご に入れて、世を渡るわざ とて売り来れり。お七親のかた に買ひとめける。その暮は、春ながら雪降り止まずして、里まで帰る事を歎きぬ。亭主ていしゆ あはれみて、何心なく、 「つい庭の片角かたすみ にありて、夜明けなば帰れ」 といはれしをうれしく、牛蒡ごぼう大根だいこんむしろ 片寄せ、竹の小笠をがさおもて をかくし、腰蓑こしみの 身にまとひ、一夜いちや をしのぎける。

油断のならないこの世の中で、ことに見せてならぬものは、旅行の時のはだ に付けた金、酒に酔った人に脇指わきざし 、娘のそばに捨て坊主だと、吉祥寺から引き上げてきた後は、厳重に監督して、二人の恋を割いたのであった。けれども、下女の情けで、恋文は何度も遣り取りして、心のうちは互いに知らせ合っていた。
ある日の夕暮れ、板橋いたばし 在住の里の子と見えて、松露しょうろ土筆つくし を手籠に入れ、これを渡世の業に売りに来たのを、お七の親の家で買い取った。その夕暮れは、春というのに雪が降りやまず、その子は村まで帰ることが出来ぬと嘆いていた。八百屋の亭主はかわいそうに思い、何気なく 「ちょっと土間の片隅かたすみ にでも寝て、夜が明けたら帰れ」 と言われたのでうれ しく、ごぼう・・・ や大根を並べたむしろ を片寄せ、たけのこがさ で顔を隠し、腰みの を身にまとって、一夜をしのぎ明かすことになった。

嵐、枕に通ひ、土間つちま 冷えあが りけるにぞ、大方おほかた は命もあやふかりき。次第しだい に息も切れ、まなこ もくらみし時、お七声して、 「先程さきほど の里の子あはれや、せめて湯なりとも呑ませよ」 とありしに、飯炊めした きの梅が、しも の茶碗にくみて、久七にさし出しければ、男うけ 取りてこれを与へける。 「かたじけな き御心入こころい れ」 といへば、暗紛くらまぎ れに、前髪をなぶりて、 「われ も江戸に置いたらば、念者ねんじや のある時分ぢゃが、いた はしや」 といふ。 「いかにも浅ましく育ちまして、田をすく馬の口を取り、真柴ましば 刈るよりほか の事を存じませぬ」 といへば、足をひら ひて、 「奇特きどくあかがり を切らさぬよ、これなら口をすこし」 と、口を寄せけるに、この悲しさ、せつ なさ、歯を食ひしめてなみだ こぼしけるに、久七分別ふんべつ して、 「いやいや根深ねぶか ・にんにく食ひし口中も知れず」 と、 めける事のうれし。
そののち寝時ねどき になりて、下々したじた打付梯子うちつけはしご を登り、二階に燈火ともしび 影うすく、あるじ は、戸棚の錠前ぢやうまえ に心を付くれば、内儀ないぎ は、火の用心よくよくいひ付けて、なほ娘に気遣きづか ひせられ、中戸なかど さしかためられしは、恋路つな れてういたれし。

夜風が枕元まくらもと に吹き込み、土間がすっかり冷えあがったので、ほとんど命も危ういくらいであった。しだいに息が切れ、目もくらんできた時、お七の声がして、 「先ほどの里の子はかわいそうに、せめてお湯でも飲ませなさい」 と言われたので、飯炊めした きの梅が奉公人用の茶碗ちゃわん に汲んで、下男の久七に差し出すと、久七はこれを受け取って里の子に与えた。 「ありがたいご親切」 と礼を言うと、久七は暗闇くらやみ にまぎれて里の子の前髪をいじりまわして、 「お前も江戸に奉公に出ていたら、兄分のある年頃じゃが、かわいそうに」 と言う。 「ほんに卑しく育ちまして、田をすく馬の口を取り、しば るわざのほかは存じません」 と言うと、今度は足をいじってみて、 「感心にあかぎれ・・・・ も切らしていないな。これなら口を少し」 と、口を近寄せてきて接吻せっぷん しようとする。この悲しさ、つらさ、歯をくいしばって涙をこぼしていると、久七は考え直して、 「いやいや、ねぎにんにく・・・・ を食った臭い口かもしれぬぞ」 と、やめてしまったのはうれしかった。
その後、寝る時刻になって、奉公人たちは打付け梯子はしご を登って、二階の燈火の影も暗く、主人は戸棚とだな錠前じょうまえ に気をつけると、内儀は火の用心をよくよく言い渡し、またその上に娘のことを心配して、店と奥との間の中戸を堅く閉じてしまわれたので、恋の通い路の手がかりが切れ、情けないことであった。

『井原西鶴集 一』 佼注・訳者;暉峻 康隆・相賀 徹夫 発行所:小学館 ヨリ
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