〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part T-V』 〜 〜
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2012/07/20 (金) 虫出しの神鳴かみなりふんどし かきたる君様きみさま (五)

程なくあけぼの近く、谷中やなか の鐘はせはしく、吹上ふきあげ の木朝風はげしく、 「うらめしや、今 ぬく もる間もなく、飽かぬは別れ、世界は広し、昼を夜の国もがな」 と、にはか に願ひ、とてもかな はぬ心を悩ませしに、母の親、 「これは」 と、尋ね来て、引立ひつた て行かれし。思へば、昔男の、鬼一口おにひとくち の雨の夜の心地して、吉三郎あきれ果てて悲しかりき。

間もなく夜明け近くなり、谷中やなか の寺の鐘がせわしく響き、吹上ふきあげえのき に朝風が激しく吹きf出した。 「恨めしや。たった今寝て、まだ温もる間もないのに、名残なご り惜しいこの別れ、世界は広いのに、どこかに昼を夜にする国もないものか」 と、にわかに願い、とてもかな わぬことを思い悩んでいるところへ、お七の母親が探しに来られ、 「これは」 と驚いて、娘を引き立てて行かれた。思えば昔男の業平なりひら が、鬼一口おにひとくち に女を食われた雨の夜のような心地がして、吉三郎はあきれはてて悲しかった。

しん 発意ぽち は宵のことを忘れず、 「今の三色みいろ の物をたま はらずば、今夜の有様告げん」 といふ。母親たち 帰りて、 「何事か知らねども、お七が約束せし物は、われ けに立つ」 といひ捨てて帰られし。いだづらなる娘持ちたる母なれば、大方おほかた なる事は聞かでも合点がてん して、お七よりは、なほ心を付けて、明けの日早く、そのもてあそびの品々調ととの へて、送り給ひけるとや。

新発意は宵のことを忘れず、 「先刻約束した三色の物を下さらぬなら、昨夜のことを言いつける」 と言う。母親はあと戻りして、 「何のことか知らぬが、お七が約束してものは、この私が保証しますよ」 と言い捨てて帰られた。いらずらな娘を持った母のことだから、たいていのことは聞かないでも承知して、お七よりはいっそう気をつけて、明けの日早く、そのおもちゃなどの品々を取りそろえておくられたということである。

『井原西鶴集 一』 佼注・訳者;暉峻 康隆・相賀 徹夫 発行所:小学館 ヨリ
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